加藤文太郎とは
加藤文太郎は、兵庫県出身の登山家で、「単独行の加藤」と呼ばれた昭和初期の名岳人です。
雪山で驚異的な単独行を重ね、日本登山史に強烈な足跡を残しました。
1936年1月、槍ヶ岳の北鎌尾根で吉田富久とともに遭難して31歳で亡くなり、その生涯は『孤高の人』のモデルとして広く知られています。
沢で加藤文太郎と語る

沢の夜、焚き火、水の音。そこに静かに座ってる男がいる。
背は高くない。少し日に焼けている。
道具は古いけど手入れされてる。
私は声をかける。
「読みましたよ、本。
加藤さんほどの人でも、思うことは同じなんですね。
時々自分のことを、なんでこんなことやってんだろう?って思っちゃうの。」
向かいに座る加藤文太郎 は、私の言葉を聞いて少し笑う。
ええ…思いますよ。
少し間を置く。
山を歩いてるとね、ふと…
なんでこんな所にいるんだろうって。
小さく肩をすくめる。
雪の中で、風に吹かれて、足は重いし、
帰りたくなる時もあります。
まあ…人間ですから。
それから、ゆっくり私を見る。
でもね、そう思うのは、だいたい途中なんです。
帰ってくるとまた行きたくなる。
不思議ですよね。
沢の方へ目を向ける。
山でも沢でも、
同じなんじゃないでしょうか。
だからね、
なんでこんなことやってるんだろう
って思うのは、たぶん、ちゃんとやってる証拠ですよ。
焚き火の火が、また小さく揺れる。
「ちゃんとやっているのかなあ。」
パウチの日本酒をマグカップに注ぐ。
「ついこうして焚き火のそばで、酒ばっかり飲んじゃいますけどね。」
加藤はその様子を見て、少しだけ目を細める。
パウチの酒を注ぐ音を、黙って聞いている。
いいじゃないですか。
あっさり言う。
沢のそばで飲む酒は…うまいでしょう。
少し焚き火をいじる。小さな火の粉が夜に舞う。
山でもね、下りてきたあと、
酒を飲む人は多かったですよ。
少し笑う。
私も…たまには飲みました。
でも、飲んでばかりだと、
山には入れませんからね。
少し間を置く。
沢も同じでしょう。
入る日と、飲む日。
ちゃんと分かれていれば、
それで十分じゃないですか。
沢の水が岩に当たる音が、夜の中で続いている。
私は思わず目をぱちくりさせた。
「加藤さん、あなた甘いですよ。」
ぐいっと酒を飲む。
「入る日と飲む日 分かれてない。入るなら飲む。飲まないなら入らない。」
にやっと笑う。
「それが私なんです。」
加藤はその言葉を聞くと、少しだけ眉を上げる。
怒るでもなく、呆れるでもなく、ただ面白そうに。
焚き火の向こうで、私をしばらく眺めている。
なるほど。そういう人もいますね。
山にもいましたよ。登る前に一杯やる人。
まあ…私はやりませんでしたけど。
私のマグカップを見る。
でもね、沢に入るなら、
酒より大事なものがあります。
顔を上げて、まっすぐ言う。
帰る気持ち。
また火を見る。
登るのは、誰でもできます。
帰ろうと思わないと、人は帰りません。
それから私に視線を向ける。
飲むなら飲めばいいんじゃないですか。
歩けるなら、それで。
でも、明日も帰るつもりで行く。
それがあれば、だいたい大丈夫です。
「・・・でも、あなたは帰ってこなかった。」
焚き火の向こうで、加藤文太郎 は私の言葉を聞く。
しばらく何も言わない。沢の音だけが続く。
……そうですね。
静かにうなずく。
帰るつもりは、ありましたよ。
誰だって、帰るつもりで山に入ります。
少し間を置く。
でもね。
山は・・・
時々、そうさせてくれない。
顔を上げる。
沢もそうでしょう?
少し目を伏せる。不思議と暗くはない。
だから、あなたが帰ってきて、
こうして酒を飲んでるなら、
それは、いい山をやってるんだと思いますよ。
焚き火の火が揺れる。
私は帰れませんでしたけど。
少し肩をすくめる。
それでも、山に入ったことを・・・
少し考える。
後悔は、してません。
沢の水音が、夜の奥へ流れていく。
「後悔しない、それはとても納得できますね。
帰るつもりで入る。
帰れるつもりで入る。
でも、山の神様は私たちのことなんて見ちゃいませんから。
時々、人間なんかよりも、ずっと残酷なことをしてくる。
それでも入るのをやめないのは、それが私の生き方の象徴だからなんですよ。」
つい熱が入ってしまう。
「沢の中に道はない。
自分で全部やらなきゃいけない。
でもそこには仲間がいて、
力を合わせて溪を越える。
そして一緒に焚き火のそばで酒を飲んで、
一緒に寝て、また一緒に歩く。」
「それが私の生き方なんです。」
「人はとかく、
どうしてそんなところに行くのか
って尋ねるけど、どうせ説明したってわからないだろうって、答えるのも面倒だ。」
加藤に向き直る。
「加藤さんはどうです?」
加藤は私の話を途中で遮らない。
ただ黙って聞いている。
沢の音と、焚き火のはぜる音の中で。
大げさですね。
・・・でも、分からないでもないです。
焚き火の枝を一本、静かに押す。火が少し明るくなる。
人に聞かれるんですよ。
どうして山に行くんですかって。
困りますね、あれは。
沢の音の方へ顔を向ける。
理由なんて…あとから付けるものです。
少し間。
山があるから登る、
なんて言葉もありますけどね。
本当は、そんな立派なものでもない。
ただ、行きたくなる。
それだけなんです。
しばらく沈黙が落ちる。
沢の水が岩を打つ音が、夜の奥へ続いている。
それから少し柔らかい声で言う。
でも、あなたの話を聞くと、
一人じゃない山ですね。
小さく息をつく。
私はだいたい、一人でしたから。
火の光が、静かに揺れている。
「仲間がいるのは楽しいですよ。
仲間がいれば、もっと遠くまで行ける。
でもひとりも悪くない。
頭の中がやかましい時は、ひとりで死にそうになってるぐらいが、ちょうどいいですからね。」
加藤はその言葉を聞くと、ふっと笑う。
大きく笑うわけじゃない。
ただ、ちょっとだけ肩が揺れる。
焚き火の火がぱちっと弾ける。
それは…分かります。
小さくうなずく。
山に入ると、
余計なことを考える暇がなくなりますから。
沢の音を聞くように、少し顔を傾ける。
雪の斜面なんかだと、
足を置く場所を間違えたら終わりです。
そうすると、頭の中が静かになる。
・・・たぶん人は、静かになりたくて
山に行くんじゃないでしょうか。
火を見つめる。
町にいると、考えなくていいことまで、
考えてしまう。
山は、それをやめさせてくれる。
少し間。
それから、私のマグカップを見る。
でも、沢の中で酒を飲むのは、
ちょっと勇気がいりますね。
返事がすぐ出ない。
・・・私には、できそうにない。
焚き火の火が静かに揺れている。
「加藤さんは、あまり飲まない人でしたよね。
無理して飲む事は無い。
飲まずに済むなら、それが良い。
私とはちょっとスタイルが違う、それだけですよ。」
加藤は私の言葉を聞いて、素直にうなずく。
否定もしないし、変に謙遜もしない。
ただ、その通りだと言うように。
ええ。私はあまり飲みませんでした。
強くもないですし。
でも山のやり方は、人それぞれです。
小枝を一本、火に入れる。ぱちっと小さな音。
歩き方も、
荷物の持ち方も、
道の選び方も。
顔を上げて言う。
同じ山でも、人によって、
全然違う登り方になります。
あなたは、仲間と歩いて、酒を飲む山。
そして、に言う。星を見上げて言う。
私は、一人で、静かに歩く山。
焚き火の火が揺れる。
でも、どっちも山ですね。
「そうです。まあ世の中には、やたらと自分のスタイルを押し付けてくる人もいますけどね。」
「でもね、加藤さん。」
「私はやっぱり、沢で酒を飲むことを、おすすめしません。」
加藤は、その言葉で一瞬だけ顔を上げる。
さっきまで私が酒を飲んでいたのを見ていたから、少し意外そうな顔になる。
ほう。それはまた…どうしてです?
沢の音が夜に流れる。
加藤は急かさない。
ただ待っている。
山で人の話を聞くときのように、黙って。
「そりゃぁ加藤さん。」
「やめられなくなるからですよ。」
マグカップを掲げて見せて、笑う。
「一度この味を知ってしまったらね。」
加藤は、その様子を見ると、少し遅れて笑う。
声を出して笑うほどではないけれど、肩が少し揺れる。
なるほど。
それは…たしかに危ないですね。
沢の音に耳を向ける。
少ししてから言う。
山も似たようなものかもしれません。
一度、いい山を歩いてしまうと
また行きたくなる。
やめたほうがいいと分かっていても。
私のマグカップを見て言う。
酒と、山。
どちらも、覚えると、やめにくい。
焚き火が静かに燃えている。
「はは、まったくだ。でも、加藤さん。
もし試してみたくなったら、お供しますよ。
私とロープを結びましょう。」
加藤は、その言葉を聞くと一瞬だけ驚いた顔をする。
それから、ゆっくり笑う。
どこか照れたような、静かな笑い。
ロープですか。
少し考えるように言う。
私は…ほとんど結んだことがないんです。
一人で歩く山が、長かったものですから。
それから少し真面目な顔で私を見る。
でも・・・ロープを結ぶというのは、
不思議なものですね。
小枝を一本、火に入れる。パチッと音がする。
山では、命を預ける、ということです。
それから、少し柔らかい顔になる。
そういうものは、簡単に言わない方がいい。
・・・でも、もし結ぶなら
ほどけない方がいいですね。
沢の水が、暗い岩の間を流れている。
「その時は、エイトノットからお教えしますよ。」
加藤は一瞬、きょとんとする。
それから、ゆっくり笑う。
焚き火の火が少し強くなって、二人の顔を照らす。
向かいにいる加藤文太郎 は、私の手元をちらっと見る。
ロープを結ぶ仕草を想像しているようだ。
エイトノットですか。
少し考える。
山の道具も、ずいぶん変わりましたね。
私の頃は、結び方も、
そんなに多くなかった。
簡単なものばかりです。
それから、少し面白そうに私を見る。
でも、教えてもらうのは、悪くないですね。
一人で歩く山もいいですが、
たまには、誰かに教わる山も、
面白いかもしれません。
沢の水音が、夜の奥へ流れていく。