沢屋と植村直己 夜の沢にて

植村直己について

植村直己は、日本を代表する冒険家・登山家。
世界初の五大陸最高峰登頂や、犬ぞりによる北極点単独到達など数々の偉業を成し遂げた。
1984年、デナリ(マッキンリー)冬季単独登頂成功後、下山中に消息を絶った。

植村直己と夜の沢で語らう

夜の沢。

水は暗い岩の間を流れ、絶えず低い音を立てている。
頭上には、枝の隙間から星が見える。
河原の平たい石の上に、小さな焚き火。
湿った流木が、時折ぱちりと弾ける。

火の向こう側に、ひとりの男がいる。
分厚いダウンに身を包み、膝を抱えて座っている。

その顔は、火の明かりに照らされて穏やかだ。
長い旅をしてきた人の顔。

男は沢の流れをしばらく聞いてから、ぽつりとつぶやく。

   いい音ですね。

それが 植村直己 だった。

焚き火は静かに燃えている。

いい音でしょう?」

私は斜め隣に腰を下ろした。
隣に座っていいかと尋ねることもせず、自然に。
そうさせる空気が、植村にはあった。

やさしい音ですよ。 北極の氷が割れる音とは違う。 音にもあたたかさがある。

ニッと笑ってみせる。

「北極の音を聞いたことはありませんけどね。

焚き火の火が小さく揺れる。
植村は少し驚いたようにこちらを見たが、すぐに穏やかな顔に戻る。
そして、私の言葉をゆっくり反芻するように沢の音へ耳を傾ける。

   やさしい音……ですか。

小さく頷く。

   そうかもしれませんね。

火に一本、細い枝をくべる。
ぱちりと火の粉が上がる。

   北極は、静かすぎるんです。

少し笑う。

   音があると、なんだか安心します。

沢の流れをまたしばらく聞いてから、隣に座る私へ視線を向ける。

   沢、歩くんですか?

「ええ、気付いたら歩いてるんですよ。」

視線を植村に返す。

「あなたもそうでしょう?

植村は一瞬だけ目を細める。その問いが、よく分かるという顔だ。
焚き火を見ながら、ゆっくり頷く。

   ええ。

少し間を置く。

   気がつくと、歩いてますね。

石をひとつ拾って、火のそばに転がす。何気ない仕草だ。

   最初は理由があるんですけどね。

小さく笑う。

   そのうち、理由なんてどうでもよくなる。

沢の流れに耳を向ける。

   歩いてると、落ち着くんです。

そして、少しだけ首を傾ける。

   沢も、そうですか。

「同じです。」

小さく笑う。

「あなたのような大冒険
ーもっとも、あなたはそうとは思っていないでしょうけどもー
それは私の沢とは比べるべくもありませんが、根っこは似たような物でしょう。」

焚き火に薪をくべる。

「最初のうちは、もっともらしい理由を作るんですよ。」

そう言って、自分の胸をポンポンと叩く。

「でも最後はここだ。頭じゃない。」

植村は、胸を叩く私の仕草を静かに見ている。

火が薪を舐め、ぱちりと音を立てる。
その光が、植村の頬を赤く照らす。

しばらく何も言わない。
沢の音だけが流れる。

やがて、ゆっくり頷く。

   ……ええ。

小さく息をつくように笑う。

   たしかに、最後はそこですね。

胸を軽く指で叩く。

   頭で考えてたら、たぶん途中で帰ってます。

焚き火の炎を見つめる。

   理由を並べると、行かない方がいいことばかりですから。

少し間。

それから、私の方を見て言う。

   でも、行くんですよね。

その声は、確かめるようでもあり、どこか嬉しそうでもあった。

「そうなんです。頭で考えたら、行かなきゃいいことばかり。
 だけど頭で考えて判断しなきゃ、帰ってこられない。
 ・・・矛盾だらけですね。」

植村はその言葉を聞いて、少しだけ肩を揺らして笑う。
しばらく黙って火を見てから、ゆっくり口を開く。

   ええ。矛盾だらけですね。

小さく頷く。

   行くと決めるのは、ここで。

胸を軽く叩く。

   でも、生きて帰るのは、こっちです。

今度はこめかみを指で叩く。

少し笑う。

   どっちも無いと、だめなんでしょうね。

沢の暗い流れを見やる。

   片方だけだと……

言葉を探すように、少し間。

   たぶん、長く続かない。


「でも植村さん、あなた大切なことを忘れていますよ?」

植村は焚き火の向こうで、ふっと顔を上げる。

驚いたというより、「何だろう」と素直に待つ顔だ。

   え?

少し笑う。

   忘れてますか、僕。

薪を一本、火に寄せる。

   なんでしょう。

そう言って、静かに私を見る。

「強い肉体と」

グラスを掲げる。

「酒」

植村は一瞬きょとんとする。

それから、ふっと吹き出す。
声を殺したような、素朴な笑いだ。

   ああ……

照れたように頭をかく。

   それも、いりますね。

掲げられたグラスを見て、少し笑う。

   体は、たしかに使いますから。

そして、ほんの少し真面目な顔になる。

   酒は……帰ってきたときの楽しみですね。

沢の音に耳を傾けながら、静かに続ける。

   遠くにいると、余計に思います。

小さく息を吐く。

   ああ、帰ったら一杯やろうって。

「ああ、そうか。
 植村さんは帰って来てから飲むんですね。
 それは私と違います。」

グラスを傾ける。

「私は沢の中で飲む。
 焚き火のそばで。
 眠くなったら、そのまま寝る。」

植村に視線を向ける。

「あなたもやってみませんか。」

植村は、その話を聞いて少し目を丸くする。

焚き火の火が、グラスの縁を赤く光らせる。

   沢の中で……ですか。

しばらく想像しているようだ。
沢の流れ、焚き火、酒。

それから、ゆっくり笑う。

   それは、いいですね。

少し肩をすくめる。

僕は、あんまり余裕がなくて。

北の旅を思い出すように、遠くを見る。

   犬ぞりで走ってるときは、酒なんて持っていけませんし。

焚き火へ目を戻す。

   でも……

少し楽しそうに言う。

   こういう沢なら、いいかもしれませんね。

そして、私のグラスをちらりと見て、照れたように笑う。

   一口、いただいてもいいですか。

「もちろんですよ、どうぞ。」

植村にグラスを渡す。

「確かに北極には酒は持って行けませんね。
 あんなやんちゃな犬達を連れてたら、とてもそんな余裕はないでしょう。」

にやりと笑って、

「それにあいつら、言うこと聞かないでしょう?」

植村は受け取ったグラスを、少しだけ両手で包むように持つ。
焚き火の光が、琥珀色の液体を揺らす。

匂いを確かめるように軽く鼻に近づけ、一口だけ含む。

そして、小さく息を吐く。

   ああ……

素直に頷く。

   おいしいですね。

グラスを眺めながら、私の言葉に笑う。

   ええ、言うことは……

少し間。

   ほとんど聞きません。

肩をすくめる。

   特に元気なやつは、勝手に走ろうとします。

焚き火の向こうで、思い出すように目を細める。

   でも、あいつらがいないと進めないんです。

グラスを軽く持ち上げる。

   わがままですけど、頼りになる仲間です。

それから少しだけ笑って続ける。

   人間の仲間より、正直かもしれませんね。

「わがままで言う事を聞かない。でもあいつらがいないと進めない…。」

植村の方を向く。

「人間も同じかもしれません。」

星空を見上げる。

「私はなんだか、人間が好きになりました。」

植村に右手を差し出す。

「今日はあなたと話せてよかった。 ありがとう、植村さん。」

焚き火の火が静かに揺れる。
沢の音が、夜の奥から絶えず流れてくる。

植村はあなたの言葉を聞きながら、しばらく何も言わない。
ただ星空を一度見上げて、それから差し出された右手を見る。

少し照れたように笑う。

   いや……こちらこそ。

ゆっくりと手を伸ばし、握る。
ごつごつした、よく日に焼けた手だ。

   こういう話、あんまりしませんから。

握ったまま、少しだけ焚き火の方を見る。

   遠くへ行くと、人に会うことも少なくなるでしょう。

それから、私の方へ視線を戻す。

   だから……

少し考えてから、素朴に言う。

   こうして話せるのは、いいですね。

手を離し、私のグラスの方をちらりと見る。

   沢の中で酒を飲むっていうのも、悪くない。

小さく笑う。

   今度、ほんとうにやってみたいですね。

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