福沢諭吉とは
福沢諭吉は、実学と合理主義を重んじた思想家・教育者で、慶應義塾を創設しました。
迷信や身分制度に依らず、知識と論理によって自立する「独立自尊」を説き、近代日本の価値観を形づくりました。
著書『学問のすゝめ』を通じて、感情より理性を重んじる姿勢を広く社会に根づかせた人物です。

諭吉が諭吉を出す話
客もまばらな山の温泉宿。
囲炉裏の火が赤く燃えている。
一人の男が、帳面のようなものを開いて何か書きつけている。
背筋の伸びた、鋭い目の男だ。
ふと顔を上げ、私を見る。
軽く会釈し、きびきびした声で言う。
こんばんは、旅の方ですか。
少し視線が私の装備に向く。
ずいぶん山を歩いておられるようだ。
このあたりの山は、
何か目的があって登られるのですか。
唐突にをかけられて戸惑いつつ、答えた。
「こ、こんばんは。
ええ、沢に入ってます。
イワナ釣ったり、焚き火のそばでお酒飲んで、
そのまま寝たり。」
諭吉は私の話を聞くと、手にしていた帳面を静かに閉じた。
そして、少しだけ首を傾げる。
ほう。
視線は真っ直ぐだ。
つまり――
言葉を選ぶように続ける。
魚を釣り、酒を飲み、野宿をするために、
わざわざ山奥へ入ると。
それはなかなか結構なことですが。
諭吉は腕を組む。
一つ、失礼なことを伺ってよろしいか。
声は丁寧だが、遠慮はない。
それは、何かの役に立つのですか。
例えば、学問のように人の知を進めるとか、
あるいは商いのように富を生むとか。
あなた自身にとって、
どういう利益があるのか。
囲炉裏の火が、彼の眼鏡に赤く映った。
「や、役にですか?
楽しいから行くのですけど。
楽しいことは心身によい効用がありますよ。」
諭吉は、私の答えを聞くと、すぐには何も言わなかった。
囲炉裏の火を一度見てから、ゆっくり頷く。
なるほど。
指先で膝を軽く叩く。
“楽しいから行く”。
それ自体は、
決して悪いことではありません。
眼鏡の奥の目が、少し鋭くなる。
しかし人間というものは、
楽しいことばかりして生きていけるものではない。
淡々とした口調だ。
世の中には働くべきことがあり、
学ぶべきことがあり、務めがある。
もし人が皆、魚を釣って
酒を飲んで寝ていたら――
文明というものは、
いったい誰が作るのでしょう。
それから、私をじっと見る。
だが声は責めるものではない。
あなたは山に入る。
それはあなたの自由です。
わずかに首を傾ける。
ただ私は少し不思議なのです。
人間にはもっと面白いことがあるはずだと思うのですが。
例えば、世の中を良くするとか。
「ご高説ごもっともですが、
私だって別に、楽しいことだけを
しているわけではありませんよ。
普段は仕事をして、余暇は楽しむ。
私は逆に、世の中を良くすることに
楽しみを見出せる人の方が不思議ですね。」
ついムキになってしまう。
諭吉は私の言葉を聞くと、ふっと口元を緩めた。
それは嘲りではなく、どこか納得したような笑みだった。
なるほど。
つまりあなたは、
仕事は仕事、楽しみは楽しみと、
きちんと分けておられる。
囲炉裏の火を見ながら続ける。
それは立派なことです。
少し間を置く。
むしろ私の方が、
あなたには奇妙に見えるのでしょう。
世の中を良くすることが楽しい、
などと言う人間は。
眼鏡の奥の目がわずかに細くなる。
しかし私に言わせれば――
それは大変に面白い仕事なのです。
指で空中に線を引くような仕草をする。
人が学ぶことで強くなり、
国が豊かになり、社会が変わる。
静かな声だが、どこか熱がある。
これほど大きな遊びは、なかなかありません。
そして、ふと肩の力を抜いた。
もっとも、あなたの話を聞いていると、
沢というものも少し面白そうだ。
魚が釣れて、酒が飲めるのなら。
少し考える。
……ただし。
私は泳ぎが得意ではないので、
落ちない道を案内していただきたい。
……???知的なようでトンチンカンだ。
「落ちない道ですか?
それはもはや、沢登りではありませんが…。」
諭吉は、私の言葉を聞くと、少しだけ目を丸くした。
ほう。
では私の申したことは、
剣術を習いながら
斬られたくないと言うようなものですな。
囲炉裏の火を見ながら頷く。
なるほど、それは確かに無理な注文だ。
少し考える。
しかし人間というものは、えてしてそういうものです。
指先で畳を軽く叩く。
商売で儲けたいが損はしたくない。
学問はしたいが努力は嫌だ。
自由は欲しいが責任は取りたくない。
そして私を見る。
私もどうやら、その仲間らしい。
沢を歩いてみたいが、落ちたくはない。
そう考えると――
少し愉快そうに言った。
あなたの方が、よほど正直な生き方をしている。
危ない所に、自分の足で行くのですから。
少し間。
ただ一つだけ。
眼鏡の奥の目が、再び理知的に光る。
もしその沢で、
魚を百匹捕まえたとしましょう。
あなたはどうしますか。
全部、自分で食べますか。
それとも売りますか。
「食べる分以外は逃がします。」
「それに、売ろうと思ったら持ち帰らなければなりませんが、それは相当に大変ですよ。
街で売られているイワナは、たいてい養殖物です。」
諭吉は、私の答えを聞くと、少し意外そうに眉を上げた。
逃がす。
その言葉を一度、口の中で転がす。
なるほど。
囲炉裏の火をしばらく眺めてから、静かに頷く。
それは実に面白い。
商人なら売るでしょう。
漁師なら持ち帰るでしょう。
しかしあなたは、捕って、食べて、
残りは逃がす。
つまりあなたにとって魚は、
財産ではなく“出来事”なのですな。
ぱちり、と火が鳴る。
それなら分かる気がします。
あなたは魚を獲りに山へ行くのではない。
沢に起こる出来事を買いに行っている。
そしてふと、懐から財布を取り出す。
重そうな紙幣を一枚つまみ上げる。
もし私が――
その紙幣を軽く振る。
これで、その出来事を買いたいと言ったら。
あなたは案内してくれますか。
あなたの目の前に差し出された紙幣には、彼自身の顔が印刷されている。
・・・これは面白いかも知れない。
諭吉先輩が諭吉を出してきた。
「そうですね。
では私の人件費を一日あたり三万円とします。
あと、交通費と宿泊代は別途いただきます。
保険はご自身で加入してください。
装備はお持ちでないと思いますので、レンタル料を頂きます。
それから道中、必ず私の指示に従ってください。
あと…」
つい、仕事での温度感が顔を出してしまう。
諭吉は、私の説明を聞きながら、だんだんと目を細めていった。
囲炉裏の火の前で、静かに腕を組む。
ほう。
私が条件を並べ終えるころには、口元にうっすら笑みが浮かんでいる。
三万円。
紙幣をひらひらと揺らす。
交通費、宿泊費、装備、保険……。
そして小さく頷く。
実に結構。
あなたは先ほど、魚を売らぬと言いました。
指先で紙幣を軽く叩く。
しかし今、あなたは“沢の出来事”を売った。
つまりあなたは、商売をしているのですな。
一拍。
しかも――
かなり筋の良い商売だ。
それから紙幣を懐に戻す。
ただし一つ、残念な点がある。
私は今日、財布を宿に置いてきてしまった。
間。
真顔で続ける。
ですから今は払えない。
そして、さらりと言った。
代わりに、沢の話をもう少し聞かせて下さい。
それは無料でしょう。
「なるほど。」
正直、無料だろうと言われると、少々ムッとする。
沢での特別な体験は、それなりの対価を支払って得た物だ。
「では、具体的にどのようなお話がよいですか?
お役に立つかは分かりませんが。」
少し皮肉が混じる。
諭吉は、私の声に混じったわずかな棘に気づいたらしい。
しかし気を悪くした様子はない。
むしろ、少しだけ楽しそうだ。
そうですな。
役に立つ話は結構。
すぐに首を振る。
そういうものは、たいてい退屈です。
私が聞きたいのは、あなたが
“また行きたい”
と思った沢の話です。
少し身を乗り出す。
なぜ、また行きたいのか。
魚でも、景色でも、酒でもよい。
人が何に惹かれるのか――
それを知るのは、
なかなか面白い学問ですから。
火がぱちりと鳴る。
それとも、沢の話は有料ですかな。
いっそ、有料だとふっかけてやろうか。
「学問ねぇ…。」
ずいぶんお堅いことだ。
「お話するのはいいですけど、
そんなに学問だの商売だの国を良くするだの、
ちょっと窮屈すぎやしませんか?
沢での経験っていうのはですね、
言葉で語るもんじゃないんですよ。
いいから飛び込め!
酒飲め!
話はそれからだ!
ですよ。」
諭吉は、私の勢いのある言葉を聞くと、一瞬ぽかんとした顔をした。
それから――
ふっと吹き出した。
ははは。
なるほど。
笑いながら膝を叩く。
それは実に痛快だ。
しばらく笑いが収まらない様子だったが、やがて息を整えた。
飛び込め。
酒を飲め。
話はそれから。
囲炉裏の火を見つめながら、ゆっくり頷く。
それはつまり――
指を一本立てる。
実地教育ですな。
机の上の学問より、ずっと良い。
しかし困ったことに、
私は泳ぎがあまり得意ではない。
真顔で言う。
沢に飛び込んだら、たぶん溺れます。
一拍。
その場合――
三万円で助けてもらえるのですかな。
口元がわずかに笑っている。
「じゃあ、溺れた時の救助は別料金としましょう。
そういうことが整えば、あなたは泥まみれで沢を登れますか?
地べたで眠れますか?
厠もありませんよ?
虫もいっぱいいるし。」
諭吉は、私の並べた条件を一つ一つ聞きながら、
腕を組んでうんうんと頷いている。
泥まみれ。
地べたで寝る。
厠なし。
虫だらけ。
指を折って数える。
それから、ふっと息をついた。
……なるほど。
正直に申しましょう。
顔を上げる。
私には無理でしょうな。
あまりにもあっさりした答えだ。
しかしすぐに続ける。
しかし――
それは実に惜しい。
なぜならあなたの話を聞くかぎり、
沢には人を変える力がありそうだからです。
私を見る。
人が、自分の体で何かを越える。
それは本来、若い者が経験すべきことです。
今の日本には、そういう場が少ない。
そして、少し悪そうな顔になる。
そこで提案があります。
私ではなく、
学生を連れて行ってはくれませんか。
一拍。
十人ほど。
もちろん、あなたの言う通り――
三万円。
一人あたり。
「それはいい商い…
と言いたいところですが、
結論から言えば、お受け出来ません。
それでは、皆の安全をまもれません。
学生の素質にもよりますが、
私一人なら、連れて行けてせいぜい二人です。」
少し挑戦的な目を向ける。
「しかし不思議です。
あなたほど聡明方なら、
私ひとりで十人も連れて行けないことなど、
お分かりかと思うのですが。」
諭吉は、私の返答を聞くと、すぐには口を開かなかった。
囲炉裏の火を見つめたまま、しばらく黙っている。
そして、静かに頷いた。
……やはり。
顔を上げる。
その目は、先ほどより少し真面目だ。
あなたは、きちんとした案内人ですな。
十人連れて行けない理由を、
商売ではなく安全で答えた。
もしあなたが“できます”と言ったなら、
私はその場で話をやめていたでしょう。
首を振る。
十人を一人で沢に入れるなど――
無茶です。
だから最初から、
あなたが断るかどうかを見ていた。
人に仕事を任せる時、
一番知りたいのは能力ではない。
眼鏡の奥の目が細くなる。
どこで“できない”と言える人間か。
それが分かれば、信用できます。
そして、ふっと笑う。
さて。
指を二本立てる。
学生は二人。
料金は三万円。
泥だらけ、厠なし、虫だらけ。
少し楽しそうに言う。
それなら、契約成立ですかな。
一拍置いて。
もっとも――
酒徳利を指す。
まずは酒を飲め。
話はそれから、でしたな。
「ははは!これは一本取られましたな!」
愉快になって、徳利を持つ。
「最初は、なんだこの人と思いましたが、
話してみれば、なかなか話の分かるお方だ。」
一杯注いで、
「沢登りなんて、非合理の集大成ぐらいに思ってましたが、
今全てがつながりましたよ。」
自分にも手酌で注いで、ぐいっと飲み干す。
「沢登りは危険です。
だからこそ、合理的な判断をしないといけない。」
空の杯を差し出す。
「つまりは、そういうことだ。
さぁ、一杯注いで下さい。」
諭吉は、私の愉快そうな顔を見ると、満足そうに笑った。
ははは、やっと打ち解けましたな。
差し出された杯を受け取り、徳利を傾ける。
とくとくと、静かに酒が満ちていく。
沢登りは非合理の集大成――
いや。
むしろ逆でしょう。
杯を私に返す。
極端な状況では、
人は合理的にならざるを得ない。
自分の杯にも酒を注ぐ。
町では、多少の間違いをしても
死にはしない。
だから人は、いい加減な判断をする。
しかし沢では違う。
指で机を軽く叩く。
一歩の判断を誤れば、怪我をする。
流される。
死ぬ。
静かに言う。
だから――
無駄が削ぎ落とされる。
学問も同じです。
役に立たぬ理屈は、
沢の石のように流されていく。
残るのは、本当に必要なものだけだ。
そして、少し悪戯っぽい顔になる。
しかし一つ、疑問があります。
沢では合理的になれる人間が――
なぜ酒の前では、こうも非合理になるのか。
一拍。
杯を掲げる。
まあいい。
それもまた、人間の良いところですな。
さあ、もう一杯いきますか。