沢で飲む酒はなぜうまいのか|渋沢栄一と話して分かったこと
沢で飲む酒は、なぜあんなにうまいのか。
その話をしていたら、なぜか渋沢栄一に商売の話をされた。

渋沢と夜の座敷にて
夜。静かな座敷。
卓の上には徳利が一本。
障子の外では、風が竹を鳴らしている。
向かいに座っている男は、穏やかな顔でこちらを見る。
その男――
渋沢栄一
は、私の装いを見て少し目を細めた。
ほう。あなた、山の人ですな。
観察するような目。
手が違う。商人でも武士でもない。
しかし、只者でもない。
酒を注ぐ。とく、とく、とく。
沢を登る人だそうですね。
興味深そうに言う。
私は多くの商売を見てきましたが――
沢登りで金を稼ぐ話は、まだ聞いたことがない。
どうです。
その話、聞かせてもらえませんか。
あなたは、なぜ沢を登るのです?
「沢登りと金儲けは、別の話ですよ。
その上で、なぜ沢を登るのかと質問している意図とすれば、こうですかね?」
「そんな金にならないこと、なぜやっているのか。」
「渋沢さん、金になることばっかり考えてたら、疲れませんか?
金は豊かになるかもしれないけど、心が痩せていく。」
空になった杯を差し出す。
「この杯みたいにね。
…そう思いませんか。」
渋沢栄一は静かに私の杯に酒を注ぐ。
私の言葉を遮らず、最後まで聞いていた。
注ぎ終えると、自分の杯にも少しだけ入れる。
そして――
くつくつと、小さく笑った。
ははぁ。なるほど。
あなた、よく言われるでしょう。
変わっている人だ、と。
杯を置く。
しかし今の話、私は嫌いではない。
指で卓を軽く叩く。
世の中には二種類の人間がおります。
金のために働く人間。
金を使うために働く人間。
あなたは、後者ですな。
徳利を軽く持ち上げて眺める。
私も、若い頃は似たようなものですよ。
幕府に仕え、フランスまで行きましたが――
ふっと笑う。
帰ってきて思ったのは、
この国はまだ貧しすぎる、ということでした。
だから私は金を稼ぐことにした。
しかし――
私を見る。
あなたの言う通りです。
金ばかりでは、人の心は痩せる。
だから私は、論語を持ち出した。
その言葉に重みがある。
金を稼ぐのは悪くない。
だが、道理のない金儲けは長続きしない。
あなたは沢を登る。
私は商売をする。
どちらも、自分の心を痩せさせないための営みかもしれませんな。
そして、少し悪戯っぽく言う。
ただ――
沢登りは金にならない、と言いましたが。
目がきらりとする。
本当にそうですかな?
世の中には、あなたの話を聞きたがる人間が山ほどいる。
冒険。
自然。
酒。
危険。
全部、商売の匂いがする。
杯を掲げる。
どうです。
沢の話、もう少し聞かせてくれませんか。
「へぇ…そういう考え方もあるんですね。意外でした。」
注がれた杯に口をつける。
「論語と商売。沢と金儲け。突飛もない組み合わせに見えて、何か共通点があるのでしょう。」
ふ、と笑う。
「私の話なんて、金にならないと思いますがね。」
「でも、ひとつだけ」
「私が変わっているっていうのは、本当です。」
その言葉を聞くと、渋沢栄一は一瞬きょとんとした顔をする。
そして――
腹の底から笑った。
はっはっはっは!
杯を置いて、肩を揺らす。
いやぁ、これは参りました。
しばらく笑いが収まらない。
やがて目尻の涙を指で拭いながら言う。
自分で言う人は、なかなかおりませんよ。
しかし、いい。
自分が変わっていると知っている人間は強い。
世の中の厄介者は、大抵――
自分を普通だと思っている変人です。
ふっと笑う。
障子の外では、風が少し強くなり、笹がざわりと鳴る。
さて。沢登り。
泥だらけになり、岩をよじ登り、虫に刺され、時には命も落とす。
合理的とは言い難い。
だが――
指で杯の縁をなぞる。
人間は、合理性だけでは生きておりません。
だから私は聞いている。
あなたは、沢で何を見ているのか。
景色か。
危険か。
自由か。
それとも――
酒がうまいだけですかな?
「へぇ…。
商売をやっている人って大抵合理的なことばかり言うものですが、
あなたは非合理的なことにも理解があるようですね。」
少し開いた窓から、初夏の風の匂いがする。
「何を見ているか、ですか。」
渋沢の好奇の目を受け止める。
「少なくとも、今あなたがおっしゃったこと全部ですよ。
一番は、酒かも知れませんがね。」
その答えを聞くと、渋沢は静かにうなずく。
なるほど。
あなたは正直ですな。
景色だの、精神修養だの、
もっともらしい理由を並べる人は多い。
しかし結局――
酒がうまい。
それで十分ではありませんか。
声が少し低くなる。
実はね。
商売も、似たようなものですよ。
国のため、社会のため、道徳のため。
いろいろ立派な理由は言えます。
だが結局は――
面白いからやっている。
うまくいけば嬉しい。
失敗すれば悔しい。
次はもっと大きいことをやりたくなる。
目が少し鋭く光る。
沢を一本登ったら、次はもっと奥の沢へ行きたくなるでしょう?
それと同じです。
少し静かになる。
外では風に笹が揺れている。
しかし。
あなたの話で、ひとつ気になることがある。
あなたはさっき言いましたな。
合理的な判断をしないといけない。
沢は危険だ。
では聞きましょう。
静かな声。
あなたは、どこで引き返しますか。
杯を軽く回す。
商売でも、冒険でも
この先は危ない、と判断する瞬間がある。
沢屋のあなたは、どこで撤退を決めるのか。
それが分かれば――
いい商売の話ができそうです。
「なるほど、あなたはどうしても商売に結び付けたいようだ。」
「しかし少なくとも、私は商売で沢を登っていません。
あくまで遊びです。」
注がれた酒を飲み干す。
「…命懸けのね。」
少々大袈裟かもしれないが、事実だ。
「その上で、どこで撤退を決めるかと言えば、気分次第とも言えます。
もちろん、怪我や天気や食糧など、判断要素はたくさんあります。
だけど、気分というのも、意外に大切ですよ。」
その言葉に、渋沢の手が、ぴたりと止まる。
徳利を持ったまま、少し考えるように目を伏せる。
……気分。
ゆっくり復唱する。
そして、ふっと笑った。
これは面白い。
商売の世界では、あまり聞かない言葉ですな。
だが――
実は一番当たる言葉かもしれない。
帳簿を見て、数字を並べて、理屈を積み上げて。
それでも最後に決めるのは、人間です。
そして人間は、理屈だけでは動きません。
少し遠くを見る。
私もね。
何度か大きな事業から手を引いたことがあります。
理由はいくらでも説明できます。
ですが、本当のところは――
なんとなく嫌な感じがした。
あなたの言う“気分”ですな。
少し沈黙が流れる。
やがて、渋沢は楽しそうな目で私を見る。
なるほど。
沢屋と商人。
随分違う生き物だと思っていましたが――
案外、同じところで命を張っているのかもしれません。
違うのは――
あなたは沢に金を置いてくる。
私は沢山の金を持って帰ろうとする。
そして杯を打ち合わせるように軽く掲げる。
しかし、どちらも結局――
うまい酒を飲むためにやっている。
目が細くなる。
そういうことにしておきませんか。
「なるほど!
先日、福沢諭吉さんともご一緒しましたが、
似たようなことをおっしゃってましたよ。」
渋沢に酒を注ぐ。
「なんでしょうね。
形は違っても、根底に流れる何かは同じなんでしょうか。」
自分の杯にも手酌する。
「その『何か』が、問題なんでしょうけど。」
その名を聞くと、渋沢の眉がわずかに上がる。
ほう。
あなたは、福沢諭吉先生とも飲んだのですか。
それはまた、ずいぶん賑やかな酒席でしょうな。
一口飲む。
先生は理屈の人だ。
筋道を立て、世の中を切り分けて考える。
ところが――
少し笑う。
最後に言うことは、だいたい同じになる。
人は、自分の力で立て。
商売でも、学問でも、沢でも。
人に言われてやるものではない。
あなたが言った“その何か”。
私はね、それを志(こころざし)と呼んでいます。
指を一本立てる。
金は手段。
名声も手段。
事業も手段。
しかし志がなければ、人は長く続きません。
途中で嫌になります。
怖くなります。
沢でも同じでしょう?
危ない、寒い、腹は減る、虫は多い。
肩をすくめる。
普通の人間なら、二度と行きません。
それでも行く。
なぜか。
そこに志の火があるからです。
もっとも――」
少し愉快そうに目を細める。
あなたの場合。
志と同じくらい、酒の火も燃えているようですがな。
そしてふっと笑う。
しかし、それでよい。
人を動かす火は、ひとつとは限らない。
あなたの沢と、私の商売。
杯が静かに止まる。
もし本当に同じ火で燃えているのなら――
少し面白そうな目になる。
ひとつ、聞いてみたい。
沢を登っているとき。
あなたが一番生きていると感じるのは、どんな瞬間ですか。
「…一番なんて、決められませんよ。
沢の中は、生の気配で満ちている。
私だけではなく、数多の生き物のね。」
徳利はもう空だ。
「でも、沢で冷やしたビールを飲む時は、このために生きてる!と思いますけどね。」
その答えを聞くと、渋沢は一瞬ぽかんとした顔をする。
そして――
腹を抱えて笑い出す。
はっはっはっはっは!
卓を軽く叩く。
参りました!
笑いながら首を振る。
“生の気配が満ちている”とは、
ずいぶん立派なことを言うと思ったら――
結論はビールですか!
まだ少し笑っている。
いや、いい。
それでいいんですよ。
人間、最後はだいたいそこに戻る。
うまい飯。
うまい酒。
気のいい仲間。
文明だの国家だのと言っても、
結局そのために働いているようなものです。
外から虫の声が聞こえる。
渋沢はふっと静かになる。
しかし――
沢で冷やしたビール、ですか。
それは、たしかにうまそうだ。
目が戻る。
商売の席で飲む酒はね。
いつもどこか計算が混じる。
相手の顔色、値段、条件、先のこと。
純粋にうまい酒は、意外と少ない。
その点、あなたの酒は違う。
山の水。冷たい空気。一日歩いた体。
それ以上の肴はないでしょうな。
外の夜風が、また部屋に入る。
渋沢は少し愉快そうな目で私を見る。
しかし。
あなたの合理性は、なかなか危ない。
沢でビール。
しかも命懸け。
これはもう――
少し芝居がかった声で言う。
極めて高コストな娯楽ですな。
そして静かに続ける。
だが、私は嫌いではない。
むしろ――
杯を軽く私の方へ向ける。
そういう人間がいるから、世の中は面白い。
沢で飲む酒がうまい理由なんて、たぶん単純だ。
疲れているから。汗をかいたから。命を削っているから。
そして何より、そのためにわざわざそこまで行っているからだ。
合理性で言えば無駄だ。でも人間は合理だけでは動かない。
最後に残るのは、志か、気分か――
あるいは、ただのうまいビールだ。
渋沢栄一とは
渋沢栄一は、「日本資本主義の父」と呼ばれる実業家で、約500もの企業の設立・育成に関わりました。
第一国立銀行の創設をはじめ、近代日本の経済基盤を築いた中心人物です。
論語の精神と経済活動の両立を説き、「道徳と経済の合一」を重視しました。
新一万円札の肖像にも採用され、日本の近代化を象徴する存在です。