快適さは、野生を鈍らせる

第1章:境界

最初は、ただの偶然だった。

庭の向こうに、熊が立っていた。
逃げるでもなく、襲うでもなく、ただこちらを見ている。

距離はある。だが、遠くはない。
一歩踏み出せば、こちら側だった。

その一歩は、まだ踏まれなかった。

第2章:来訪

「礼は、持ってきた」

次に現れたとき、熊は鮭を抱えていた。
理由は分からない。ただ、敵ではないことを示したかったのだろう。

玄関の前で、少しだけ迷う。
それでも、帰らなかった。

その時点で、境界は少しだけ曖昧になった。

第3章:受容

「少しだけなら」

気づけば、縁側にいた。
湯気の立つ茶碗を手に、庭を眺めている。

外の空気は知っている。
だが、その冷たさはここには届かない。

ここには、別の温度があった。

第4章:適応

「……動かなくても、困らないな」

炬燵に入ると、立ち上がる理由がなくなった。
寒さも、空腹も、ここでは問題にならない。

みかんの皮を剥く。
それだけで、時間は満たされた。

牙を使う場面は、なかった。

第5章:記憶

「……どうして、あれをしていたんだろう」

夜。
画面の中で、自分が鮭を追っている。

水しぶき。
冷たい流れ。
噛みつく瞬間の、確かな手応え。

それは確かに、自分だった。

だが、その力の使い方を、もう思い出せなかった。

「……まあ、いいか」

そう思った時点で、それはもう必要のないものだった。

第6章:役割

「任せておけ」

台所に立つ。
火を扱い、味を整える。

捕る必要はない。
ここには、十分なものがある。

包丁を持つ手は、驚くほど安定していた。
牙を使うことは、もうなかった。

最終章:帰属

「ここでいい」

夜。
布団に入り、深く息を吐く。

寒さはない。
警戒もない。

安心して眠れる場所が、ここにある。

春になったら、庭に何を植えるかを考えていた。
牙は、もう必要なかった。

それが、いつからなのかは分からない。
気づいたときには、すでに失われていた。