プロローグ
表銀座は年を取ったら行くところ。
二泊できるなら、体が動くうちは、沢やバリエーションルートをやりたい。
これは、その思いが言わせるセリフだ。
どうやら、表銀座を歩く資格は得たらしい。
表銀座とは、中房温泉から合戦尾根を登り、大天井岳、東鎌尾根の喜作新道を経て槍ヶ岳へ至るコースである。
中房から槍の穂先までのコースタイムは、13時間45分、16.6kmの道のりで、登り2911.7m、降りは1183.5mのアップダウンとなる。
もちろん槍からの下山時間も必要なため、二泊三日で歩かれることが多い。
今回は天候等を考慮して、中房から大天井岳(おてんしょうだけ)までの往復とし、燕山荘のテント場で二泊することにした。
今日のビールは絶対美味い、あれは13kNの威力があると、登山道に入る前から言い始める私達。
Nおじさんに至っては、大天井の山頂で
「おてんしょんプリーズ」
と言うのだと、何度も予行練習を繰り返している。
そんなくだらない話をしながら、中房温泉へ向かった。
※kN(キロニュートン)とは、「どれだけ強い力に耐えられるか」を表す単位で、主にクライミングや高所作業、工学等の分野で出て来るワード。人体はおよそ12kNの衝撃を受けたら死ぬと言われている。
一日目
合戦尾根を登る
中房には登山者用の駐車場が三か所あるが、第一駐車場は有料化されている。
なお当日の予約でも空きがあれば利用は可能で、現地にての手続きもできる。
一日3,300円なので、一泊すれば6,600円。
今回(6/23)は平日にもかかわらず、なんと第2駐車場が満車になっていたので、第3駐車場に停めた。
ハイシーズンの週末は、早めに第1駐車場を予約した方がいい。
合戦小屋までは約3時間の行程。
薄曇りではあるものの、やはり暑い。
このルートは、ひたすらに樹林帯を黙々と登るので、正直あまり好きではない。
暑い中、合戦小屋のスイカが食べたいな・・・
でもまだスイカの販売は開始していないかも・・・。
そう自分に言い聞かせつつ登り、ほぼ予定通りに、合戦小屋に到着した。
あ・・・あれは、スイカののぼり旗ではないか!

スイカ一切れ600円。
合戦小屋の名物である。

汗をかいた体に、冷えたスイカの水分と甘さは最高としか言いようがない。
Nおじさんの顔芸も冴える。

他に、各種うどんやおでんなどの軽食も食べられる。
ここから燕山荘までは、約1時間ちょっと。
着いたらビールと、持参したおつまみを楽しみたいから、今食べたら食べすぎだよなぁ・・・。
と逡巡したものの、結局カレーうどんを食べてしまった。
そしたらすっかりお腹が重くなって、そこからの登りが辛いのなんのって、
「こんなに変わる!?」
と思ったけど、そういえば鏡平小屋でカレーを食べた時も、その後の登りが辛かった。
学習しろよ、私、と思った。
合戦小屋~燕山荘
合戦小屋を過ぎれば、ほどなくして合戦沢の頭に着き、そこからは森林限界の上で、眺望が開けてくる。
晴れていれば、ここから燕山荘も見える。

今シーズン初のチングルマに出会った。
毎年この時期、チングルマが満開の時に太郎平周辺か立山に行こうと思っているのに、忘れて沢に行ってしまう。
ちなみに中房~大天井エリアでは、ここ以外でチングルマは見かけなかった。
(もちろん、咲いていたのを見逃した可能性はある。)

眺望が開けると、大天井や槍ヶ岳が見える。
もうずいぶんと雪も少なくなっており、今年の雪解けは早いな、と思う。

標高2712mの宴会
カレーうどんで重くなったお腹に苦しみつつ、15時頃、燕山荘に到着。
テントの受付をしなければならないが、それより大事なことがある。

燕山荘では、生ビールを飲むことができるのだ。
乾いた体に冷えたビールをぐいっと流し込むと、13kNの衝撃をくらって全員テーブルに突っ伏す。
とりあえず一杯飲まないと、受付も設営も始まらない。
それにしても、一生懸命疲れて登ってきて、毒を飲むというのもまた一興。
健康になりたいんだか、不健康になりたいんだか、どっちなんだ。

テント場には、まだまだ雪が残っている。
冬に雪の上に設営する時は、テントが汚れなくて済むという利点があるが、雪と泥のミックスで悪いとこ取りだった。

いよいよ本格的に宴会開始。
小屋泊であればあたたかい小屋の中で宴会ができるが、今回はテント泊。
外のベンチで宴会となるため、ダウンパンツも着込む必要がある。
燕山荘は標高2712mの場所にあるため、6月下旬でもかなり寒い。
家で仕込んできた鶏の煮込みや、自家製ささみの燻製に山椒マヨネーズを添えたものなど、肴には妥協がない。
山椒マヨネーズは、フレッシュな山椒の実をさっとゆでたものを刻んでマヨネーズに混ぜたものだが、この爽やかさといったら、Nおじさん曰く、「イケメンの新入社員」だそうだ。

徳用サイズのチーたらは、袋のままだとペディグリーチャムか何かの「犬のおやつ」みたいだが、曲げわっぱに入れると急に「本日の酒肴」みたいな顔をする。
甘エビ干しなんかも加わり、酒が進むものを全力で集めた布陣だった。

私が生の鶏肉を持参し、Nおじさんが調理器具を持ってくるはずだったのに、なんとフライパンを忘れてきたという。
仕方ないので、プリムスの鍋の蓋でちまちまと焼いた。
ある物でどうにかする、それが大切だ。
風もまあまああり、すぐにガスの火が消えてしまうため、エバニューのFPマットが風よけとして役立った。
このマット、どれだけ使い道があるんだ。

エバニューFPマットは、使い勝手が良い上に安いので、イチオシの逸品。
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ブロッケン現象と美しい夕暮れ
この日は夕焼けが素晴らしかった。
小屋の中で飲んでいると、夕焼けを見るのを忘れがちだが、ベンチだと忘れずに済む(笑)

そして谷に雲が流れ込み、ブロッケン現象が現れた。
山には何度も登っているが、私自身これを見るのは5回目くらい。
条件が揃わないと出会えない現象だけに、その場にいた誰もが歓声を上げ、夢中でカメラを向けていた。

6月下旬、結露が凍る夜
クロスオーバードームは、快適性を犠牲にした軽さが特徴だ。
それゆえ、テント内の結露は激しく、シュラフもかなり濡れてしまった。
こんな時、ナンガのオーロラテックスのシュラフだと、シュラフカバーも不要で安心なのに。
なんで今回は、そうではない方のシュラフにしてしまったのだろうと後悔した。
6月下旬なら、真冬のような寒さではないと思っていたが、まあまあ寒かった。
シュラフは冬用で、マットは軽さ重視でR値2.3のサーマレストネオエアーウーバーライトで行ったが、ちょっと寒いな、と感じた。
ひとりは、知らぬ間に小屋の素泊まりに切り替えていたらしい。
深夜を過ぎるとテント内の結露は凍っていた。
寒い時にエアマットに穴が開くと地獄なので、リペアキットは持って行った方がいい。
二日目
夜明けの燕岳
今日は晴天の予報なので、朝食前に夜明けの燕岳山頂を踏み、その後大天井まで往復するという計画だ。
朝4時に歩き出す約束のため、未明に意を決してシュラフから這い出すと、見事な夜明けだった。

燕岳も、踏まれるのを待っている。
Nおじさんは、燕山荘には何度も来ている。
しかし、その全てが冬。
天気に恵まれず、「今日は飲んで終わり」となり、実は燕岳山頂を踏むのは今回が初めてだった。
「飲みに行く山」が、ようやく「登る山」になった瞬間である。

朝焼けも景色も素晴らしかった。
槍から剱まで全て見渡せる。
しかも見える稜線はほとんど歩いたことがある上に、伊藤新道も歩いたから、谷底まで歩いてる。
燕岳の稜線の夜明けも、初めて見た時は感動したが、今ではもう日常の一部になってしまった。

眼鏡岩の前で眼鏡のおじさん。

山頂では、同行の黄色いおじさんが、カップルから写真撮影を頼まれていた。
なんでも、結婚式で使う写真らしい。
「それは責任重大だ!」
といってスマホを構えるその背後で、私とNおじさんが、
「結婚は幸せとは限らない」
「結婚は一度とは限らない」
なんて言っていたとは、知る由もないだろう。
雲上の朝食
朝焼けを見て、燕岳の山頂を歩き、テント場へ戻る。
湯を沸かそうとして時計を見ると、まだ5時21分だった。
雲海の下には、きっといつもの梅雨空が広がっているのだろう。
でも私たちは雲の上にいた。
空は青く、太陽は暖かく、朝はまだ始まったばかりだった。

当初は2泊ともテント泊の予定だった。
しかし予報では、夜のうちから雨が降り始めてしまうらしい。
夜の結露で装備もかなり湿っていたため、朝の快晴を利用してテントとシュラフを徹底的に乾燥。
その日のうちに小屋の素泊まりへ切り替えることになった。
雨の中で濡れたテントを撤収するのは、クソだるい。
差額の9,000円は、無職の私にとって小さな金額ではないが、背に腹は代えられない。

そして大天井へ向かう前に、燕山荘の喫茶室でケーキセット1,200円を頂く。
これから約5時間半のアップダウンを歩くという免罪符があるとはいえ、果たしてその罪は許されるのか、定かではない。


花咲く表銀座を大天井岳へ
いよいよ表銀座コースへ歩き出す。
ここからは、歩くこと自体がご褒美のような稜線が続き、彼方に見える槍ヶ岳が徐々に近づいてくる。

天気がいい縦走路は素晴らしかった。
砂礫の中に点々と、清らかなピンクのコマクサが咲き誇っていた。
燕~大天井はコマクサの群生地で有名だ。
他にもサンカヨウ、コバイケイソウ、シナノキンバイ、ミヤマキンバイ、ウラジロヨウラク、ハクサンコザクラ・・・
花も景色も美しくて、なかなか進まなかった。
天気がいいのに雷鳥も出てきて、おいおい大丈夫か、天敵に狙われないか?と心配した。

写真の中央にある一番高いところが、本日の目的地、大天井岳。
まだまだ遠い。

だいぶ近づいてくると、最後のトラバース道が見えて来る。
山頂の左下に、斜めに入っているベージュのラインがそれだ。

最後のトラバース手前あたりに、喜作レリーフや、ちょっとした岩場がある。
「ちゃんと怖いよー」という、高い所が苦手なNおじさんの独り言が聞こえてきた。

この分岐から、トラバース道が始まる。
最後のもうひと頑張り、といったところ。
大天荘に寄らないで槍へ向かう場合は、右方向へ進む。
ちなみに途中のヒュッテ西岳は、2025年度から燕山荘グループが経営することになった。

最後の登りを歩き切り、大天荘に到着する。
ここから山頂まではわずか10分なので、ビールとランチの誘惑を振り切って、山頂へ向かう。

小屋の右側から、ガレた道を山頂へ向かって登る。

あんなに「おてんしょんプリーズ(attention please)」をリハーサルしてきたのに、カメラを向けたら恥ずかしくなってしまったらしく、言えなかったNおじさん。
満を持して大天井岳山頂で披露するはずだったのに、まさかの自粛。
結局、一番言うべき場所で誰も聞くことはできなかった。

山頂からは、高瀬ダムまで見える。
伊藤新道を歩いた日のことを、思い出す。

大天荘、標高2922mのご馳走
ランチメニューは、ぶったまげの内容だった。
まさか、こんなものが頂けるとは思ってもみなかった。
そしてビールを飲んで、今日も13kNをくらって三人そろって全滅した。
飢えなくて済むというのは、すごくありがたいことだ。
その上、こんなに美味しいものが食べられるなんて、なんて恵まれているのだろう、としみじみ感じた。



大天荘のテント場は、ミヤマキンバイが咲き乱れていて見事だった。
このテント場からは、槍に穂高に涸沢カールが一望できる。
お気に入りのテント場のひとつだ。
大天荘も、夜は食堂にランプの灯りがともり、ジャズが流れる、「飲みに行く岳」にふさわしい小屋だ。
非常におすすめの小屋なので、ぜひ一度、泊まってみてほしいと思う。

花の中で酔い覚ましに昼寝をした。
昼寝にはやはり、エバニューFPマットが活躍する。
あれはもう、わずか200gで畳を持ち運んでいるに等しい。
広げればそこは、ごろ寝ができる和室も同然だ。
思う存分のんびりしたら、燕山荘へと戻ることにする。

ルート上にほぼ雪はないが、トラバース道の途中に一か所、少しだけ雪上を歩く部分がある。
Nおじさんは、こういう場所が苦手だ。

燕山荘へ戻って、本日二度目の13kN
大天井から燕山荘に戻って、テントを回収して、またビール。
本日2度目の13kNでまた死ぬ。
その後小屋内に移って、宴会開始。
記憶は、ない。

私の誕生日が近いということで、仲間がスイスワインをおごってくれた。
このボトルのエチケット(ラベル)は、後日私のエチケットアルバムの1ページに加わった。

ちなみに、小屋内の様子はこのようになっている。



三日目
帰りたくない人たち
燕山荘の自炊室は、かなり端っこの方にある。
お湯を沸かす程度なら食堂でもOKということだが、ラーメンを作ったりするので、自炊室を利用した。
なお、テント泊の人は利用不可。

外は、予報通りの雨。
小屋泊に切り替えてよかったと思いつつ、下山がおっくうで仕方がない。
未練がましく、また喫茶室でお茶をしばいてダラダラした。


しかし、いつまでもいるわけにはいかない。
仕方なく、本当に仕方なく、出発する。
幸い、雨は強くない。

つい2か月足らず前は、雪の世界だったのに。もうすっかり夏の景色だ。
↓夏と冬の比較


レモンスカッシュ劇場
下山は早い。
あっという間に合戦小屋に着く。
合戦小屋では、私ともう一人がレモンスカッシュを購入した。
Nおじさんは、
「財布が奥だから。」
と言うので、いやいや貸しますよ、というものの、遠慮が止まらない。
そこで二人同時に、
「ぷしゅっ。」
「ぷしゅっ。」
目の前でレモンスカッシュを開ける。
爆笑。
それを見ていた小屋の人は、もう無言で冷蔵庫から三本目を取り出していた。
それでもNおじさんは、
「いやぁ、どうしようかなぁ。」
最後まで芝居を続ける。
今回一番完成度の高いコントだった。
下山後は蕎麦と馬刺し
下山はちょうどお昼前ぐらいになった。
下山後に何を食べるかは、登山の楽しみのひとつとも言えると思う。
この界隈にはたくさんの蕎麦屋があるが、中でも私のお気に入りの蕎麦屋に立ち寄ることにした。
この店のノンアルビールは美味い。
そして馬刺しと馬もつ煮も外せない。
ちなみに、クレジットカードや各種コード決済も使える。

エピローグ
「表銀座は年を取ったら行くところ。」
そんなことを言って始まった二泊三日だった。
けれど、久しぶりに歩いた晴天の稜線はやはり美しく、花を見つけるたびに足を止め、山小屋では美味しいものを食べ、酒を飲み、くだらないことで笑った。
沢やバリエーションルートのような冒険はない。
それでも、こんな山の楽しみ方も悪くない。
何より、10年後、20年後にこの記事を読み返した時、きっと思い出すのはコースタイムでも標高差でもない。
13kNで何度も死んだことや、結局「おてんしょんプリーズ」が言えなかったことや、合戦小屋で三人そろってレモンスカッシュを飲んだことなのだと思う。
燕岳~大天井岳の基本情報と持って行ってよかったもの
■中房の第一駐車場は有料、一日3,300円。
13日前から予約が可能で、クレジットカード、Times PAY、Apple Payで決済。
週末は満車のリスクが高いので、早めの予約を推奨。
詳しくはこちらから → タイムズのB
■燕山荘ではクレジットカード決済が導入されていた。
ただし電波状況等により使えない場合もあるので、要注意。
■クラブ燕山荘は入会金無料、有効期限10年で、10泊すれば1泊無料。
グループ内の宿泊施設共通で使える。
入会手続きは小屋のフロントでできるが、向こうから勧めてくることは基本ないので、自分で申し出る必要あり。
■燕山荘のテント場は要予約。
空いていれば当日でもOK。
テント泊の場合、無雪期はテント場のトイレを利用。
積雪期は小屋内のトイレが使えるが、洗面所の利用は不可。
■休憩、昼寝、風防に使ったマット。
■エアマットを使うなら、必携のリペアキット。
■お酒を担ぎ上げるなら、これに移し替えれば便利。
■フッ素加工されていて、ご飯を炊いた後の始末がラク。
蓋はフライパンとしても使える。
ただし一度に鶏肉が3切れくらいしか焼けない(笑)