毛利元就公をたどる旅

この記事の目的

これは私の旅の記録として、全く個人的に、未来の私に対して記すものだ。
誰にあてて書いたものでもないので、わざわざ読むような物好きな方も、そういないとは思う。
だが一応、前提として、なぜこのような旅になったのかだけは記しておこう。

勤続15年のリフレッシュ休暇で、10連休を取ることが出来た2026年の4月。
ずっと前から何をするか楽しみにしていたが、長野県から車ではるばる広島、山口まで行って、毛利元就公関連の史跡巡りをすることにした。
もともと歴史好きだったわけではないが、そのあたりはかなり好きで、もはや「様」を付けずに呼ぶことなどできないので、「うわっ、キモッ」と思ったら、そっ閉じして頂ければと思う。

また、歴史には諸説あることも、念のため申し添えておく。

一日目 

実際の初日は移動で終わり、岡山県内のPAで車中泊だった。
翌朝から実際に活動開始したので、これを一日目とする。

鈴尾城

一番最初に訪れたのは、元就様生誕の地。

元就様の母は福原広俊の娘で、里帰り出産をしたからここで生まれたのでは、と言われているようだ。
しかし言われているだけで、裏付ける資料はない。

入口の前は車を数台停められるようになっていて、ゲートを開けて中へ入る。

ちょっとだけ歩いたら、「毛利元就御誕生之地碑」が建てられている。
雨の中、ここに存在したかもしれない屋敷を想像し、あの謀略の神にも無垢な赤子の時期があったのだろうと想像する。
でも無垢でいられた時間は、わずかしかなかっただろう。
安芸の小さな国人領主の次男坊、松寿丸には、苦難の日々が待っているのだから。

1497年に生まれた元就様は、5歳で父を亡くし、10歳で母を亡くし、しかもその一年後には家臣の裏切りによって居城を追い出されている。
そうして大人達の欲望と裏切りの間で翻弄される中で、弱みを見せず、感情を制し、状況を見て先を読むような人間になっていったのかもしれない。

安芸高田市歴史民俗博物館

雨なので、屋内で見られるものからめぐることにする。

この博物館付近には、元就様の墓所や吉田郡山城跡が集中している。
駐車場には案内図があり、城や墓所へ行く際は、車を移動させる必要があるようだ。

入り口付近の展示物のみ、撮影可能。
色々威腹巻(いろいろおどしはらまき)のレプリカが展示されていて、記念撮影ができるようになっている。
実際に元就様が着用したという物も現存しており、毛利博物館の所蔵となっている。
しかし現物はあまり展示されないので、残念で仕方がない。
保存のことを考えれば仕方ないが・・・。

展示物は、元就様関連のものが多く、直筆の書状も展示されている。
その筆の運び、墨の濃淡を見て、当時の手の動きを想像する。
ああ、本当にいたんだな・・・こうして仕事をしていたんだな、と胸が熱くなる。

道の駅三矢の里あきたかた

本当ならこの日の内に城を二か所めぐりたかったが、結構な雨だったので、早々に一杯飲んで寝ることにする。
宿泊地は近くの道の駅。

安芸高田市の平野部に位置しているが、多治比猿掛城、鈴尾城、吉田郡山城がそれぞれ平野部への入り口に配置されている。
三つの城に守られたこの地で、元就様もご覧になったであろう山並みと空を見て、風を感じると、心が五百年前に飛んでいくようだ。

二日目

多治比猿掛城

ここは元就様が幼少期から若き日を過ごした城。

三百貫の小さな所領を現代にたとえるならば、なんとか食べてはいけるけど、ちょっと何かあったら詰む、ぐらいのレベルだろうか。
本拠地の吉田郡山城には当時、兄の興元がいたため、27歳で家督を継ぐまではここで過ごしていた。

さほど広くはなく、ぐるっと一周歩いて移動距離が1.4km、高低差が165m、約1時間の所要時間だった。
ただ、勾配はきつい。

本丸跡まで登ってきた。
幼少期、ここで遊んだのだろうか。
城を奪われた絶望を味わったのだろうか。

城に戻れた後も、兄を支えてどうやって自国を守っていくか考えていたかもしれないし、兄が大内義興の上洛に従軍させられて不安な日々を過ごしたかもしれない。
そして兄の死に衝撃も受けたことだろう。

そんな日々が、この地に詰まっているのではないか。

樹が茂ってしまい、本丸からの視界はすっきりしないが、ここから吉田郡山城も見えるはずだ。
何を思って見ていたのだろうか。
もしかしたら、日々を生きるのに必死で、兄のことを思う余裕すらもなかったかもしれない。

ふもとには、元就様のご両親のお墓があったので、手を合わせてきた。

毛利元就および一族墓所

車を停めるなら、ここが一番近い。

本当は吉田郡山城を歩いてから墓所に参ろうと思っていたが、どこに車を停めたらいいかとうろついている間に、ここにたどり着いてしまった。
郡山公園側から回れば、城跡を一周した後に墓所にたどり着くことになると、後から分かった。

参道を200m少々歩いただろうか、一族の墓所があり、そこからさらに階段を上った先に、元就様の墓所がある。
名前を見ただけで、胸が騒いだ。
ああ、本当に元就様のお墓なんだ、と。

階段を上ると左手に「百万一心」の石碑がある。
まだお墓を見る心の準備ができず、脇にある案内文を、逸話は知っているのに、やたらと読んでみたり。

深呼吸して目を閉じ、意を決して振り返る。

元就様のお墓だ・・・。
門に一文字三星の家紋。

本当に実在した人なんだという思いと、もうこの世にいないという現実。
手を合わせると、とめどなく涙があふれて来る。

吉田郡山城

墓所の脇に、吉田郡山城への登山道入り口があった。
ひと通りめぐって、移動距離2.8㎞、高低差258m、所要時間1時間半程度。

途中、崩れた石垣の跡を発見。
当時の石かもしれないと、撫でまわしておいた。

本丸跡。

ここでなされた判断が、毛利を作っていったのだろう。
三万の尼子軍(自軍の十倍以上と伝わる)に囲まれた時も、ここで元就様が策を練り、指示を出し、跳ね返したのだ。

…重い、重すぎる重圧なのに、森はこんなにも静かだ。
人の営みなど気にかけてもいない。

そんな人の営みが、儚くもあり、愛おしくもある。

本丸からの眺め。

わずか二千程度の兵が詰めるこの城で、眼下に三万もの尼子軍が囲んでいるのを見たら、一体どのような気持ちになるのだろう。
自分だけこっそり逃げるとか、自分が切腹するから他の人は助けてくれと言うか、徹底抗戦か、援軍を期待しての籠城か・・・。

郡山合戦では最終的に、陶の援軍(大内方)が一万でやってきて、尼子軍は撤退していった。
陶の援軍に対し、元就様は丁重におもてなしをして感謝したらしいが、その十五年後には、元就様は厳島にて陶を自刃に追い込むことになるのだから、戦国の世というものは苛烈極まりない。

小早川家墓所

50㎞ほど移動し、小早川家の墓所へ。
菩提寺である米山寺のそばにある。
移動の途中で、沼田、乃美、椋梨など、当時の名前が地名として残っているのがアツい。

お寺はずいぶんと立派な門構えで、入っていいのかためらわれたが、中も見てきたらよかったと後悔している。
再訪したら、中もお参りしてこよう。

お墓は整然と並んでおり、前列右端が隆景様(毛利元就三男)のお墓だ。
故中納言と官位が書かれている。
この整然とした雰囲気が、いかにも隆景様らしい。
崩れない、取り乱さない、まるで完成された芸術品のような、そんなイメージだ。

幼くして竹原小早川へ養子入りし、初陣はとんでもないバケモン級の戦功、沼田小早川も取り込んで小早川総領主を務め上げ、毛利両川の頭脳として生きた隆景様。

あともう少し生きていたら・・・きっと関ヶ原は・・・。
歴史にたらればなど言っても仕方ないが、どうしてもそう思ってしまう。

きっと隆景様本人にも、小早川の行く末が見えていただろう。
だけど寿命はどうにもできない。
後に託すしかない。

そのことを思うと、やはり手を合わせながら、涙を止められないのだった。

新高山城

城にも行こうと思い、車を走らせると、まるで巨大な門のように向かい合って存在する二つの山があった。
なんだこの異様な雰囲気は、と思ったら、それが高山城&新高山城だったので驚いた。
そして新高山城に登ってみたら、その無駄のない機能美に、もう一度驚いた。

隆景様の頭脳をそのまま城にしたような、この山城。
登り始めた時は、

「ここを隆景様が・・・」

なんて思っていたが、歩くほどに、

「何この城、めっちゃすごいやん」

になっていった。
なんという無駄のない曲輪の配置だろうか。
なんだか隆景様の掌の上にいるような気持ちになる。

途中、匡真寺跡に歌碑が設置されていた。
当然、歌碑は当時のものではないが、新高山城を元就様と隆元様が訪れた際の連歌会で詠まれた発句だろう。
この山城で、親子で団らんがあったのだろうと思うと、ほっこりする。
きっと隆景様は抜かりなく饗応したことだろうなと、当時の状況を想像してしまう。

山頂は、やたらと整備されていた。

それよりも、本丸からの眺めが驚きだ。
瀬戸内の海と、河口と、内陸をつなぎ、なおかつこれだけの見通しがきく場所をピンポイントで選ぶとは、驚くべきことである。

そもそも小早川家の居城は高山城だったのを、隆景様が小早川の当主になって、新高山城に移したのだ。
川を挟んで目の前の山に城を移すとか、え?なんで???と思うかもしれないが、私もそう思った。
これはこの後、高山城へも登るしかあるまい。

ちなみに本丸は、とても登れなさそうな斜面の上に作られており、守りの堅さがよく分かる。
標高が高すぎず、かつ峻険で、しかも押さえるべき場所を押さえたこの場所、

「一体どうやって見つけたの?」

と思うと同時に、

「なんでこれまでの小早川は、高山城におったん?」

とも思った。

急峻な斜面の反対側を見てみれば、なんと井戸が!
それも複数!
この高さに、これだけの井戸があれば、籠城にも有利だろう。
こんな本丸の近くに井戸があるとは、驚きだ。
高度な立地選定と掘削技術を思わせる。

なお、移動距離は2.5km、高低差229m、所要時間1時間半だった。
駐車場はここ。

高山城

もうこれは、高山城も行くしかないねと登った、本日四つ目の山城。
Googleマップを調べたら、どうやらここに車を停められそうだ。
搦手門からの登城ルートとなる。

結果、なんかイマイチだなと思った。
後から地形図を見たら、むしろなんで高山に城を作った?と思えたが、昔はGoogleマップもドローンもなかったのだから仕方ないだろう。
むしろ、新高山城の地を見出したことがすごいとも言えるし、瀬戸内の海を戦略に組み込んだゆえの移転だったとも言えるかもしれない。

なお移動距離は1.9㎞、高低差195m、所要時間50分だった。

星野旅館

星野リゾートじゃなくて、星野旅館ね。
素泊まり平日5940円。
三日ぶりのお風呂のための宿だ。

初夏のような陽気の中、四つも山城を歩き回って、汗だく&喉からから。
早く汗を流してビールを飲みたいところだけど、この宿には風呂がひとつしかない。
16時半から先着順で、となるため、16時半に行ったが、タッチの差で負けた。
なんとしてもサッパリしてからビールを飲みたいと、じっと待つ。
これもまた、旅の良い思い出だ。
三日ぶりに汗を流して、しかも山城を四つも歩き回った日の夜、冷えたビールは最高だった。

三日目

今日から三日間は二人旅となるが、合流前に二か所を訪れる。

陶晴賢の墓

まずは陶晴賢の墓所をお参りする。
世に言う三大奇襲のひとつ、「厳島合戦」で、毛利の敵となった大内軍の総大将だ。

立派な鐘楼門の洞雲寺。

陶殿のお墓は、なんら柵に囲われることもなく、ひっそりと建っていた。

大内菱が刻まれたお香立てと共に、辞世が記された陶片が墓前に置かれていた。
その、元就様の味方でもあり、敵でもあり、そして大内のために生きた人生を思うと、やはり目頭が熱くなるとともに、写真を撮るのも不謹慎な気がしてきて、写真は撮らなかった。

 
  何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に

この辞世は、”敗北の言葉”じゃなくて、”自分の選択を引き受けた言葉”だ。
悪役として語られがちな陶晴賢だが、私は嫌いじゃない。

桜尾城跡

今は桜の名所として、ただの小高い場所にある公園になっている。
城としての面影は、ほとんどない。
ここがかつて城だったことを知っている人が、どれほどいるのかも分からない。
だけどここは、大内、安芸武田、毛利らの争いのど真ん中で、城主が目まぐるしく変わる要衝の地だったのだ。

だけど今となっては、桜が美しい公園で、すぐ近くに保育園?があって、子どもの声がよく聞こえる。
平和な時代――少なくとも日本では、血を流す争いをしなくてもいい時代になったんだな、と思う。

包ヶ浦~博奕尾

いよいよ厳島へ渡る。
フェリーで10分程度で渡れるし、近いようにも見えるが、これを手漕ぎボートで渡ろうと思ったら、なかなかに大変だろう。

厳島に来たら絶対歩きたかった、包ヶ浦から博奕尾を経由して、厳島神社へと抜けるルート。
移動距離3.8㎞、所要時間は1時間半だった。

この包ヶ浦に、嵐の夜、毛利本軍は上陸した。
日本三大奇襲と呼ばれる、「厳島合戦」の幕開けの地だ。

序盤は舗装された道を歩くが、歩く人も少ないのか、やがて笹がちになる。
圧倒的な兵力差、灯りも使えぬ闇夜の中、いかにしてここを越えていったのかと思うと、当時の心境を想像したり、私も夜に歩いてみたいなと思ったり。

あれが陶の本陣か!
と言いたくなる眺めだった。
夜であれば、かがり火が見えたのではないだろうか。
「よし、攻めるぞ!」と思ったのか、「しめしめ、あそこにいるな」だったのか、それを知ることはできないが、このルートを歩くことで、少しでも当時の思いに近づきたかった。
その覚悟に、触れたかった。

歩いたら、腹ごしらえだ。
名物の牡蠣とアナゴを、これでもかと食す。
車はフェリー乗り場の駐車場に置いて行って、明日回収することにし、ビールも頂くことにする。
汗をかきながら歩いた後のビール、それに牡蠣とアナゴ、そして歴史談義をできるという幸せを、しみじみと噛みしめた。

宮尾城

厳島合戦の際に己斐直之(こいなおゆき)が守り抜いたという宮尾城。
陶軍を島に誘い込むための囮だったという他にも諸説あるが、ここが落ちていたら、あの戦いの勝ち筋は細くなっていただろう。

こんな高さの城で守ったとは、ほんとに???と言いたくなるような場所だった。
これは、現地を訪れて実感として分かったことの、かなり上位に入った。
しかし大河ドラマでは、堀立直正が守ったことになっていた上に、己斐直之の名前は一切出てこなかった。
ドラマだから仕方ないとは言え、あれは許しがたい。
こんな場所で、すさまじい数の陶の軍勢から城を守り続けたとか、とんでもない恐怖と覚悟だったと思う。
それを垣間見ることが出来ただけでも、宮尾城跡を訪れて本当に良かった。

後世で歴史を語る時、ドラマチックな展開や、大きな首級をあげたことが取り上げられがちだが、このような、地味だけど鍵となる重要なところをやり遂げた人に、心を動かされる。

厳島を観光で訪れるなら、ぜひとも、己斐直之のことを思い出してほしい。
あまり知られていないけど、自分の役割を果たし切った人なのだと。

しかも己斐直之の父は毛利に討たれているのだから、その上でこの役割を担って、ちゃんとやり切ったということは、もっと世に知られてもいいのにと思う。

厳島神社

ようやく、厳島神社の方へ向かうことにする。
道中、ゴルシか?と思うような白い馬の像があった。
もちろんゴルシ(ゴールドシップ)ではなくて、神様の乗り物としての白い馬らしい。

厳島に来るなら、潮の満ち干はあらかじめチェックすべし。
干満差は最大で4mにもなるという。
ちょうど新月で、大きく潮が引き、大鳥居のそばまで歩いていけた。
この大きな鳥居が、自重で立っているだけというのも驚きだ。
月の満ち欠けと潮の満ち干の関係を、理屈抜きで気づいていただろう昔の人の知恵、このような建物を考え付いたアイディアと技術、本当に一体、どうなってるんだろうか。

昇殿して、内部を拝観。
平清盛のお話を知っていれば、より感慨深く見ることが出来るだろう。
次回は、そうしたい。

それより私は、元就様だ。
神社によくある一斗樽に、百万一心を発見!!!
一日、一力、一心、と書いて「百万一心」。
心と力を合わせることの大切さを説いた、元就様の言葉だ。

元就様と隆元様で再建したものとされる、反橋(勅使橋とも)。
当然、当時の橋がそのまま残っているわけではない。
それにしても、写真だと分からないが、これ普通に歩けんやろっていうぐらいの勾配だった。
通常に渡るための橋ではないし、何か意味があるのだろう。

宮島離れの宿 IBUKU

今夜はぜいたくな宿に泊まる。
厳島を、外から眺めるのもいいものだ。
島の中から細部を見て、外から全体を見る。
陶殿が自刃したのはあのあたりかな・・・なんて想像してみたり。
それにしても、人生の節目に厳島に来るとは、思ってもみなかったな。
本当に、人生って面白い。

四日目

ろかい船

満潮を狙って再訪してみれば、なんとろかい船で大鳥居をくぐることができるという呼び込みがあった。
ひとり1,500円。
これが解説と質疑応答付きで、予想以上に価値があった。

海の上に浮いているかのような、厳島神社。
若干、床のレベルと水面に差があるが、年に四日程度だけ、平清盛が意図した「極楽浄土」の景色が見られるらしい。
今でも十分すごいけど。

大鳥居を、船と徒歩の両方でくぐれたのは、事前の下調べのおかげだった。
段どり八分ですね。

滝小路~大聖院

周辺も散策するかと地図を見てみれば、滝小路が目についた。
なんと書いてあったか記憶は定かでないが、古い通りだとか、神職の住まいがあるとか、書いてあったように思う。

来てみれば、日本語なのに半分ぐらいは意味不明な言葉の羅列があった。
ひとつひとつの言葉の意味を調べてみたら、建物の意匠にすごく興味がわいて、また新たな視点で史跡や神社仏閣を見ることができるようになった。

そしてその通りには、棚守屋敷跡があって、今はただのフェンスで囲まれた空き地だが、

「これがあの、棚守さんち!?さすがいい所に住んでるね!!!」

と、盛り上がれる相手なんて、そうそういないと思う。
ほんとただの空き地なのに、そこに意味を乗せることができるのが、歴史の楽しみ方のひとつだ。

大聖院の仁王門。
これは構造から言えば、「楼門」と思われる。
二階部分があるが、そこに人が入ったり鐘をつるしたりする構造ではないので、多分そう。

・・・だと思う。

正解当てクイズをしたところで、答え合わせができるわけでもないが、門からその建物の格や意味を考えることが出来るのは、面白い。

若山城

島を出て、山口方面へ向かう途中、陶殿の本拠地であった若山城跡を訪れる。
車でかなり上がってこれるので、本丸までは歩いて20分程度らしい。
あの陶殿の城の本丸から、どのような眺めが見えるのか楽しみだ。

アクセスはこちら。

本丸跡まで上がってみれば、驚きの見通し。
さすがは陶殿だ。
彼方にかすかに豊後の地が見え、瀬戸内、本州、九州の行き来が見える。
ここからなら、一艘の小早舟でもずいぶん目立つだろう。

それにここまで来るまでの道中、海が近いのに山が深くて、敵が攻めて来るならルートは限られるな、というのも感じられた。
本当に理にかなった場所に城があり、その意図を地形から読み取ることが出来ると、山城歩きの楽しみは何倍にもなる。

この景色は、街並みこそ違えど、陶殿も見たのだろう。
しょっちゅう蟄居処分させられていたが、一体どのような思いでこの景色を眺めていただろうか・・・。

大内氏遺跡 館跡(龍福寺)

隆元様が、お世話になった義隆公の菩提寺として、後奈良天皇の綸旨を賜り、大内氏館跡に再建した寺だ。
おお・・・大内菱だ・・・と、圧倒されてしまう。

義隆公の辞世が刻まれた歌碑。

  討つ者も 討たるる者も 諸共に 如露亦如電 応作如是観

享年、四十五歳。

金剛般若経の一節で、「にょろやくにょでん おうさにょぜかん」と読む。
自分を討とうとする者も、討たれる私も、みな露や雷のように短くて儚いものだと、公家のごとき文化や教養と、武士の潔さをハイブリッドしたような辞世だ。

この辞世を、毛利がいつ耳にし、どのような思いを持ったかは分からないが、生き残るために必死な戦国の世であっても、何かしら思う所はあったのではないだろうか。

ただの寺というより、大きなお墓のように思える。
当然、当時の建物が現存しているわけではないが、名門大内家を、敬い弔っているように見えた。

敷地内には資料館もあって、入口前には義興公(義隆公の父)の像がある。
かなりのやり手だったが、まさか息子の時代で滅ぶなどとは思っていなかだろう。

将軍を擁して上洛するほどの人が、まさか息子がクーデターで死んで、その後は大友から当主を養嗣子として継がせたものの、めちゃくそ小さい国人領主だった毛利に滅ぼされたって、何がどうしたらそうなるの???って話だ。

義隆公は、ここから大寧寺まで逃げて、そこで自刃した。
約50㎞の道のり、Googleマップで見たって相当遠い。
その距離感を現地で実感すると、当時の悲壮感や、冷泉や右田が必死に主君を守ろうとした姿が、思い起こされる。

この資料館の中に、大内家の代々の当主が描かれた絵図があったが、最後の当主は義隆公になっていた。
実際にはその後に、大内義長がいるのだが・・・。

政治の道具として大友と大内を行ったり来たりした挙句、実の兄にも見捨てられ、18歳で自刃というなんとも切ない話な上に、資料館でもこんな扱いだとは、やるせない。
しかも、

「降参したら助けてあげるよ。君は政治の道具に使われてただけでしょ。」

と言われて降参したら、切腹を迫られるとは、終わりまでやるせない人だ。

梅乃屋

昨夜に引き続き、今夜もぜいたくな宿だ。
山口といえば、フグでしょうよ。

酒は「萩毛利」とか、名前で選んじゃうよね。
そしてYoutubeで厳島の戦いをおさらいしつつ、史跡の感想を語り合った。

五日目

瑠璃光寺

宿でおすすめされた「瑠璃光寺」。
なんでも国宝なのに、見るのも駐車場も無料らしい。

来てみたら、大内氏のラッピングバスが走っていて、ぶったまげた。
五百年前に滅びて、その後は毛利氏が治めていた地だというのに、

「西国一のお館様」

なんて書かれている。
これは、現地に来て初めて分かることの、最も顕著な例だった。

で、瑠璃光寺に来てみれば、ひっくり返るぐらいに驚いた。

何これ、ヤバ・・・うそでしょ?

と、語彙が死ぬぐらいに、大内氏の権力と財力、地域に与えたであろう影響を、分かっているようで全然分かっていなかったと、痛感した。

もともとは来る予定にしていなかったが、これも旅の出会いというものだろう。
大内氏がいかに隆盛を極めたか、そして、いかに毛利がとんでもない勢いで勢力を伸ばしたのかということを、よく分からせてくれる。

たとえて言うならば、米ソの冷戦のさなか、名前を聞いたことがあるようなないような小国が、どっちも制圧しちゃった、みたいなものだ。

生き残るために最適解を積み続けたら、気づけば怪物になっていた。
それが、毛利元就公なのだ。

防府天満宮

こちらは、防長計略の時に毛利軍が本陣を置いたという場所らしい。
天満宮は菅原道真公を祭る神社のようだが、太宰府天満宮ぐらいしか知らなかった。

静謐というよりは、人も多くてカラフルで、観光地&学業成就のパワースポットという印象を受けた。

しかし神をまつる神聖な場所が、血なまぐさい戦の本陣に使われるというのも、不思議な気がする。
神仏の加護を受けて戦った、ということだろうか。
死も戦も祈りも、ひとつの流れにあった時代、現代の感覚とは違うのだろう。

近くに、強烈なキャラのおっちゃんがやっている土産物屋があった。
「大内塗」
という言葉に誘われたが、とことんキャラ濃いおっちゃんの土産物屋だった。
一歩足を踏み入れると、オヤジギャグの連打がすごいので、急いでいる時は行かない方がいい(笑)

大内塗も大内人形も、滅びた大内氏が愛した京文化が、今の世にも伝わっている。
大内氏は武で治めるのではなく文化で治め、滅びたのに負けていない。
これもまた歴史の面白い所だと思う。

毛利博物館

ここを一番楽しみにしていたけど、結論から言えばガッカリだった。

建物自体は明治時代に建てられたものなので、あの時代の毛利氏が住んだ場所ではない。
それはそれとして、直筆の書状とか、身に着けていたものとか、そういう物を期待していた。
しかし貴重な品は常設展示しないんだな・・・と、ひとつお勉強になった。

時は四月。
ひな人形関連のものが展示されていて、武具や書状を期待した私には、とんだ肩透かしだった。
五月は端午の節句にちなんだものを展示しているらしいので、見に行きたいが、さすがに遠い・・・。

屋敷の中を見られるようになっているが、ここにも百万一心が飾られていた。
元就様、あなたのキャッチコピーが五百年たっても生きていますよ。

六日目

小倉山城

今日も元気に長距離運転!と、160㎞ほどの道のりを、山口から吉川家の拠点方面へ車を走らせる。

まずは小倉山城跡。
吉川氏が居城としていたが、元春様が入ったのは日山城(日野山城とも)だったということに、現地についてから気づく。

駐車場はここ。

まあでも、とりあえずひと通り歩いておこう。
本丸まであっという間だし、今は木が邪魔して眺めも良く分からず、あまり大した感想を持てなかった。
山城とは、受け取る側のアンテナが非常に重要なのだ。

吉川氏城館跡~吉川元春の墓

というわけで早々に、戦国の庭歴史館へ行くことにした。

・・・が、月曜定休。
仕方ないので、館の跡と墓所を見て、翌日再訪するとしよう。

ここは、元春様が隠居屋敷とするために建てられたが、当のご本人は完成前に亡くなっている。

享年57歳。

戦国の世であれば仕方ないのかもしれないが、死ぬまで戦続きなのだから、死後の世界というものがあるのならば、せめてそこでは、のんびりと庭でも眺めていてほしいと思う。

発掘された庭園跡は、修復が施されているようだ。
元春様が眺めることは、なかった庭・・・。
のんびりした余生なんて、望むべくもないというか、そんなものが存在するとすら、思っていなかったかもしれない。

この屋敷跡から発掘されたものは、歴史館内に展示されている。
後で再現模型と照らし合わせると、また面白い。

やはりお墓はきちんと塀に囲まれている。
本当によく戦いましたね、との思いを込めて、手を合わせてきた。

有田城

まだ日も高いので、今夜の宿泊予定地(道の駅 舞ロードIC千代田)周辺も散策してみる。

この周辺には、有田中井手の戦いで討ち取られた将の「戦死の地」が、複数ある。
この、武田元繫戦死の地は、たどり着くのに少々苦労した。
車を停めることもできないので、もしゆっくり見たいなら、徒歩で行った方がいいだろう。

もちろん、この場所ピンポイントで戦死したなんて思ってはいないが、あの西国の桶狭間と呼ばれた戦いの、敵の大将の戦死を偲ぶため、訪れてみたかった場所だ。
「銀山城主」と書かれているが、安芸武田氏が拠点としていた佐東銀山(さとうかなやま)城のことだ。
今回は時間が足りずに行けなかったが、次回は必ず歩きたい。

中途半端に時間があるので、道の駅から見えたちょっと小高い丘程度の、有田城へも行ってみる。
入り口を探しまわって、ようやく見つけた場所は、この辺だった。
車を停められて、トイレもある。

登山口にこのような説明書きがあるほど、いまだに語り継がれる有田中井手の戦い。
これを機に、毛利氏は戦国大名への道を歩き始めたと言われている。

登山口から本丸までは往復30分足らずで、距離は1キロもなく、気軽に登れる。

しかし本丸跡まで登ってきて、ぶったまげた。

下から見上げたら、そんなに高くない山どころか、ちょっとした丘程度にしか見えないのに、このあたりに敵が侵入してくるならあの谷合からだろうな、という所は全て見える場所だったのだ。
Googleマップの地形と照らし合わせて、ふむふむなるほど・・・と興奮しつつ、感服した。

山城をどこに築くかは、色々な場所に色々な方向から、何度でも足で歩いて決めたのだろう。
登山道がない山を歩くのがどんなに大変か、身をもって知っている私としては、その執念がどれほどのものなのかがよくわかる。

確かに城の立地には、自国の行く末や大勢の人の命がかかっているのだから、そんなに簡単に決められるものではない。
そのことを、
「下から見たらただの丘だな・・・」
と思えるような場所が、登ってみればぶったまげという経験を通じて、強烈な実感として理解できるのだ。

道の駅 舞ロードIC千代田

今夜も0円宿泊ということで、道の駅へ到着。
これまでの旅を振り返りつつ、考察にふける。

有田城の興奮を胸に、夕焼けを見ながら、このあたりが元就様の初陣の地か・・・と感慨にふける。

有田中井手の戦い(有田合戦とも)は、毛利、吉川連合軍が千少々なのに対し、武田軍が五千とも伝わり、しかも毛利は当主が24歳で亡くなった直後で、家督を相続した当主は2歳。
後見人となった元就様も20歳で戦経験もないと、不利も不利な状況での戦だった。

それが、大将武田元繫は討ち死に、武田軍五千は総崩れとなった。
その後、安芸武田氏は急速に衰退して、毛利に滅ぼされることになる。

不利な状況から、毛利元就の妙計奇策によって、初陣にもかかわらず大勝利を収めた合戦であり、これを契機として、毛利の名は中国地方にとどろき、大内義興公も一目置く存在になった・・・。
というのはお話としては面白いが、私は違った見方をしている。

後の世で勝った側に都合がいいように話が盛られる、というのはよくあることだし、容易に想像もつく。
ただ、「よくあることだから、盛られているだろう」だけで終わるのではなくて、現地を歩き、当時のことをひとつひとつ紐解いて、自分で考えるのが面白い。

当時の毛利軍は、毛利、吉川の連合軍であり、まだ当主ですらない毛利元就ひとりがなんらかの奇策を立てて、それに全軍が従ったとは考えにくいこと。
戦の場所は元々吉川の領地であり、地の利をうまく使えたのではないかということ。
そして大内義興公からの感状に「多治比のこと神妙」とあるのを、どう読み解くかということ。

これらを総合して考えていくと、なんとなくリアルな状況が思い浮かんでくるし、それが歴史の楽しみのひとつだと思う。

特に感状については、これをもとに、
「大内義興から一目置かれた」
とは思わない。
なぜなら感状というものは、
「すごい功績だ!ありがとう!」
のお手紙ではなくて、後で恩賞を請求するための証明書のような役割だったからだ。
そして「神妙」という言葉も、
「あいつには、なんだか不思議な力があるぞ」
という意味ではなく、感状でよく使われた言い回しであり、いわばテンプレだからだ。

そうやって、古文書の読み方にまで入り込んでいくほどに、新しい視点が生まれて、際限なく沼にはまっていくのだ。

七日目

日山城

紅茶を淹れ、道の駅で買った「おからと豆乳たっぷり焼きドーナツ」を朝食とする夜明け前。
早朝から日山城へと向かうと、ひんやりとした空気の中、センダイムシクイ(鳥)が盛んにさえずっていた。

日山城は、元春様を吉川に養子入りさせ、言い方は悪いが、そのまま乗っ取らせた時の吉川の居城だ。

ここには吉川興常の首塚がある。
興常は、色々とやらかして、廃嫡の上、強制隠居させられ、しかも元就様の指示で暗殺されてしまった吉川家の当主だ。
興常の墓所は暗殺された隠居所の地域にあるが、首塚は菩提寺の常仙寺跡にある。
その首を犬がここまでくわえてきたという伝説があり、その犬の犬塚もここにある。

日山城はちょっと色々うろついて、距離は3.3km、所要時間は約1時間40分だった。
曲輪にナンバリングもされていて、よく整備されていると思うが、途中はかなり笹が茂っていて、朝露でびしょ濡れになった。

地形的にもやっぱりさすがだな、という場所にあり、支尾根が多くて曲輪を作りやすい地形だと感じた。
なお「曲輪」も「廓」も「くるわ」と読むが、かなり混用されており、明確な区別はない。
だが山城なら「曲輪」の方がしっくりくると思う。

本丸までやってきて、あの元春様もきっと苦労して、ここで吉川をまとめあげていったんだろうなと五百年前のことを夢想する。
株立ちの桜があり、誰かが植えた物かもしれないが、元春様には桜よりも梅が似合うな、と思った。

28もの曲輪があり、それらのつながりを考えながら歩くのが、楽しい。
時に、登山道として整備はされていないが、曲輪同士をつなぐ道だったのでは?という所も見つけられたりする。

ウルイが生えていた。
登山道も沢がちだったし、水を含みやすい山なのかもしれない。
きっと昔も生えていただろうと思うと、元春様も春になったらウルイを口にしていたのかな、などと思う。

戦国の庭歴史館

朝9時のオープンと同時に入る。
平日の朝9時、もちろん来館者は他に誰もいない。
こういう施設にありがちな展示が、出迎えてくれる。

他にも、吉川家の家宝で、国宝指定された太刀「狐ヶ崎為次(きつねがさきためつぐ)」を再現した様子が展示されており、同程度の重さと長さの模造品を手に取ることができる。

国宝の太刀そのものは、吉川史料館にあるようだが、当然常設展示はされていない。
なおこの太刀の写しを作る際に許可を願い出たら、「完成したら吉川史料館に寄贈すること」を条件に許可されたと、職員の方が説明してくれた。

吉川城館跡を再現した様子。
優雅な老後の暮らしというよりは、政務を執り行えるような建物の配置に見える。
もし元春様がここで老後を過ごしていたら、と思うと、叶わなかった未来の姿を見ているような気持ちになる。

おお、門が「薬医門」になっている!
もちろん当時、本当に薬医門だったのかは分からないが、ちゃんとこの家の家格を考慮して再現されていると思うと、嬉しくなってしまった。

戦国時代のもてなし料理、という展示もある。
食にうるさい私としては、何がご馳走だったのか、非常に気になるところだ。

まず量だが、とても食べきれるものではない。
これは、品数も、その内容も含めて、家の力を見せていたのだろう。
漫画「信長のシェフ」でも、料理が持つ役割が興味深く表現されており、あれはかなり好きな漫画だ。

食べ物の内容としては、やはり食材も調理方法も限られているな、とは思った。
その反面、鶴とかカワウソとか、え?それ食べるん?という食材もあった。

いずれにせよ、これだけの物を揃えようと思ったら、なかなか骨が折れることだろう。
鶴にしたってカワウソにしたって、どうやって捕まえる?という話だ。
魚ひとつにしても、当時の道具でどうやって捕ったのか、そして腐らせずに運んできたのかを考えれば、見方も変わる。

帰路

心が五百年前に飛ぶ旅も終わり、木曜からの仕事に向けて、帰らなければならない。
カーナビ曰く、自宅まで720㎞、約9時間。

本当は途中のSAで車中泊でもしようかと思っていたが、頑張って運転すれば自宅のベッドで寝られると思うと、一気に走り切ってしまった。

到着したのは20時過ぎだったが、さすがに疲れた。
しかし「意外にいけるかも」という感じもあり、秋になったらもう一度、今度は山陰や因島も含めて巡ろうと思った。

最後に

私は「歴史好き」と自認できるとは思っていない。
だけど、自分が興味を持った部分については、深く理解しようとしている。

例えば、毛利輝元は、優柔不断で、生まれながらのボンボンで、無能だなんて、後世の人が簡単に言うかもしれないけど、それは結果を知っている側の視点だろう。
それに、毛利元就と比較するなんて、比較対象が悪すぎる。
そんな偉大な祖父を持って、生まれた時からとんでもない役割を背負わされ、優秀すぎる叔父たちからの厳しい指導にも必死で耐えてきたのだ。
普通の人間ならつぶれてもおかしくない。

輝元だけじゃなくて、例えば荒木村重のような、家族を見捨てて逃げた卑怯者と言われる武将ですらも、その決断をする時や、その後の胸の内の葛藤など、察するにあまりある。
それに、もし自分がその立場に立ったとき、本当に自分の命が危い時、同じ判断をしないと100%の自信を持って言える人なんてどれほどいるのだろうか。
安全な場所から、「卑怯だ」「裏切り者だ」と言う人こそ、卑怯じゃないのか。

歴史を単なる英雄譚や悪人探しとして見ると、人間が平板になる。
戦国時代を生きた人たち一人ひとりに、簡単には説明しきれない生き様や、その胸の内を、断片的に残る記録から想像し、垣間見る時。
武将たちを、ただ1人の人間としてみる時。
そんな時、私は自分の魂に触れるような思いになる。

歴史上の人物を「評価対象」ではなく、“極限状況を生きた一人の人間”として見始めた時、歴史は知識から、魂に触れる体験へ変わる。

歴史は過去の暗記ではなくて、

「極限状態で人間はどう生きるのか」

を見つめる営みでもある。

それは、沢登りや冬山などに通ずるところがあると思う。