雨の朝、源流へ
今シーズン最初の沢は、二泊三日の源流釣行だった。
朝4時に目を覚ますと雨。
「マジかよ」
思わずそう呟いたが、同行者のNおじさんは、仕事を終えたらそのまま長野へ向いそうだ。
きっともう駐車場で仮眠している頃だろう。
中止という選択肢は、なんとなく頭に浮かんでは消えた。
高速を走っている間も雨は降ったり止んだり。
いやあ、いい天気だ。
そんな皮肉を言いながら鳥倉林道の駐車場へ向かう。
案の定、Nおじさんは前夜からのスクランブル発進だった。

三伏峠まで1/10
荷物を整え、ハーネスを着け、ザックを背負う。
そして後悔した。
重い。
問題はロープでも幕営装備でもない。
酒と肴である。
本当にこれを担いで行けるのだろうか。
そんな不安を抱えながら歩き始めた。
林道も楽ではないが、登山道に入るとさらに厳しい。
これは修行だ。
自分に負けるな。
そう言い聞かせながら登っていると、一枚の看板が現れた。
『三伏峠まで1/10』

そういえばそんな看板があった。
しかし今の感想は一つだけである。
「まだ10分の1なの?」
すでに十分つらい。
三伏峠の手前まで来る頃には、二人とも気分はボロ雑巾だった。

風は強くなり、寒さも増してくる。
しかも私は荷物の軽量化のため、シュラフをナンガのミニマリズムにしていた。
今日の夜は大丈夫だろうか。
そんな不安を抱えながら、ようやく三伏峠へ到着した。
ちなみにここのテント場はきっちり区画が決まっていて、我々は「都営団地」と呼んでいる。

そこから沢へ向かって下る。
本来なら目的の出合まで行く予定だった。
しかし二人とも心のどこかで考えていた。
「もう今夜はここでいいんじゃないか」
誰が最初に言い出すか大会である。
結局、私が先に負けた。
もう十分だ。
今日はここにしよう。
幸い幕営には悪くない場所が見つかった。
タープは張れたが、ハンモックを張るのにちょうど良い木がない。
探すのも面倒になり、その夜はタープの下で地べたに寝ることにした。

沢辺の宴
まずは沢で冷やしたビールを半分ずつ。

くぅ~~~~!!!
この一杯のためなら、350mlは重さに含めないことにしている。
その夜の宴会はなかなか豪華だった。
焼き春巻き。
自家製ささみ燻製のミントチャツネ添え。
マッシュルームとアスパラのソテー。
酒盗クリームチーズ。
チキンガーリックソテー
そしてホタルイカの素干し。
いやもう、荷物が重いの当たり前だろ。
焚火で炙ったホタルイカは内臓の旨味が爆発する。
本当なら日本酒を合わせたい。
しかし今回は重さの都合でウイスキーだった。
旨い。
旨いのだが違う。
ウイスキーは旨味を受け止めるというより洗い流してしまう。
日本酒も持ってこられる体力がほしい。




そんな後悔をしながら酒を飲み、焚火を眺めていたら、いつの間にか二人とも寝てしまっていた。
焚火の前でウトウト(?)するのは、沢泊の醍醐味のひとつだ。

夜は、寒さで何度か目を覚ました。
我慢できないほどではないが、ミニマリズムだと辛かった。
爆釣と昼寝
朝は恒例の「起きたら負け大会」が開催されたが、どちらが負けたのかは覚えていない。
ただ、空は見事に晴れていた。
昨日の雨が嘘みたいだ。
Nおじさんは、喜びの声を上げる。
「今日帰らなくていいんだ!」
二泊というのは、それがいい。
この沢は2327m付近までは、庭園みたいな風景が続く。
コバイケイソウが群生し、小さな花が咲き乱れる。
6月下旬頃には、歩くのが申し訳なくなるようなお花畑になる。

困難な場所はなく、ロープも持参はしていない。
途中にある二段の滝が一番大きいが、登る際は高巻きしなくてもいけそうなぐらいだ。

そして出合へ到着した。
ここからが本番である。
荷物を降ろすより先に竿を出した。
私はテンカラ。
Nおじさんはルアー。

私は支流へ入り、最初のポイントへ毛鉤を落とす。
一投目。
反応なし。
二投目。
反応なし。
三投目。
水面が割れた。
「でかい」
そう思った次の瞬間には、取り込み方を忘れた初心者みたいに慌てていた。
沢から引き抜いたイワナは十分なサイズだった。

今シーズン最初の沢。
最初の一匹。
それだけで十分嬉しかった。
本当は二人で行動した方が安全だよね、という話もしていた。
していたのだが。
魚が釣れ始めると、人間というものは駄目である。
気が付けば私は支流へ。
Nおじさんは本流へ。
それぞれ勝手に釣り始めていた。
そこで気付いた。
ビクを持っていない。
久しぶりの釣行である。
完全に忘れていた。
仕方がないので流れの脇に石を積み、即席のいけすを作る。
岩魚も生きるために必死だ。
こちらも夕食のために必死である。
隙間を埋め、念入りに作った。
我ながら上出来だったと思う。
その岩魚は、しばらくそこにいた。
時に逃げたそうに。
時に諦めたように。

私は近くのポイントを釣りながら、ときどき様子を見ていた。
すると本流のあるポイントで再び魚が出た。
一度は見切られたものの、少し時間を置いて流してみる。
案の定、食った。
「やった!」
そう思った瞬間。
パキャッ。
嫌な音がした。
見るとテンカラ竿が根元近くで折れている。
マジかよ。
そう思いながらも、とにかく魚を逃がさないことだけに集中した。
何とか取り込み、例のいけすへ放り込む。
その瞬間だった。
バシャッ。
大きな水音が響く。
先住の岩魚である。
見事な跳躍だった。
あれだけ苦労して作ったいけすを飛び越え、自由の身となって沢へ帰っていった。
残されたのは、逃げた奴より一回り小さいくせに、竿だけは折っていった新入りだった。
折れた竿でしばらく粘ってみたが、やがて諦めた。
十分だろう。
今日はもうのんびりすることにした。
ハンモックを張り、横になる。
目を閉じてもいい。
閉じなくてもいい。
沢の音を聞きながら、ただ揺られていた。
思えば昔は、いつも何かに追われていた気がする。
夜は寝なければならない。
朝は起きなければならない。
期限までに終わらせなければならない。
そんな「ねばならない」に囲まれていた。
だがこの日は違った。
何もしない自分を許すように、しばらく昼寝をした。
目を覚ましても、Nおじさんはまだ戻っていなかった。
少し様子を見に行く。
しかし姿はない。
まあ、あいつも相当な物好きだから、かなり先まで行ったのだろう。
そう思いながら幕営地へ戻る。
途中で桜の枝や流木を見つけた。
これはイワナを焼く時に良い香りが付きそうだ。
そう思ったら、つい大きな枝まで担いでしまう。
幕営地へ戻り、紅茶を淹れてティータイム。

沢の風は冷たい。
陽射しは暑い。
木漏れ日は心地よい。
そんな時間を過ごしながらも、頭の片隅には常に考えていることがあった。
もし戻ってこなかったら。
沢ではそういう想定を完全には消せない。
それもまた自然の中へ入るということだと思う。
しばらくすると、沢の向こうに人影が見えた。
しかも魚をぶら下げている。
どうやら心配は無用だったらしい。
「どう?いっぱい釣れた?」
そう聞くと、
「もう、爆釣!」
と返ってきた。
見せてもらったビクの中には五匹のイワナが入っていた。
どうやら今夜の食糧事情は安泰である。
私のいけすに残っていた一匹も加え、魚は十分な数になった。
その後もしばらく釣ったり、コーヒーを飲んだりして時間を過ごした。
二度釣られた岩魚
そして夕方。
「そろそろ殺るか」
二人でナイフを手にする。
沢に沈めていたビクを持ち上げると、イワナ達が激しく暴れた。
運命を察したのだろう。
魚は本当にすごい。
生きるためとなれば、信じられない力を出す。
だからこそ私達は沢から離れた場所で魚を掴み、一匹ずつ締めていく。
イワナを締める時は、今でも少し胸が痛む。
命を頂くというのは、本来こういうことなのだと思う。
スーパーに並ぶ切り身も同じ命だが、そこでは誰かがこの役割を引き受けてくれている。
自分で魚を締めていると、その事実を忘れずに済む。
命を犠牲にしなければ、自分の命は保てない。
そして自分の命もまた、これまで犠牲になってくれた無数の命の上に成り立っている。
最近はクマの出没が話題になることも多い。
私も人間だから、人の命を優先すべきだと思うし、危険な個体への対処は必要だと思う。
それでも時々考える。
「殺せ」と簡単に口にする人は、その命に自分でとどめを刺すところまで想像したことがあるのだろうか、と。
そんなことを考えながら魚を捌いていた時だった。
「あれ?」
とNおじさんが言った。
「こいつ毛鉤食ってる」
見ると、魚の口から見覚えのある毛鉤が出ている。
ありんこパラシュートだった。
私のだ。
一瞬考えて、気付いた。
「あっ!」
「お前か!」
昼間、脱走したあの岩魚である。
あれだけ苦労して作ったいけすから脱走し、自由の身になったはずだった。
岩陰に隠れて震えているかと思ったら、今度はNおじさんのルアーに食いついていたらしい。
「お前、今日釣られるの二回目かよ!」
魚も回収。
毛鉤も回収。
大爆笑である。

こうして二度逮捕された岩魚は、その日の夕食になった。
その夜も宴会は豪華だった。
ささみの燻製に山椒マヨネーズ。
ちくわとかにかまの酒盗炒め。
ウインナーのバルサミコケチャップ炒め。
そして主役のイワナ。
刺身も天ぷらもムニエルも試したことがある。
どれも美味しい。
それでも結局、塩焼きが一番だと思う。

ただし時間がかかる。
本当に美味しく焼こうと思えば、一時間以上は当たり前だ。
だがその待ち時間も悪くない。
酒を飲み、肴をつまみ、焚火を眺める。
やがて遠火でじっくり焼かれたイワナが仕上がる。
香ばしい皮。
ふっくらした身。
ここまで歩いてきた道のり。
重かった荷物。
きらめく源流。
この日を楽しみにしていた時間。
そんなもの全部を含めた美味しさだった。

その夜は初日よりずっと遅くまで起きていた。
他愛もない話をした。
くだらない話もした。
少し含蓄のある話もしたような気がする。
だが何を話したかは覚えていない。
全部、沢に流れていった。
6時11分の朝
翌朝、目が覚めると沢の音が聞こえた。
初日のような寒さはない。
ハンモックで寝たおかげか、よく眠れた気がする。
Nおじさんは朝マズメを狙うと言っていた。
私は適当に起きて焚火に火をつける。
ところがしばらくすると、Nおじさんがテントから海獣みたいに這い出てきた。
どうやら朝マズメより睡眠欲が勝ったらしい。

沢の水を汲みに行く。
ついでに竿を出す。
お湯を沸かす。
朝食を食べる。
お茶を飲む。
コーヒーを飲む。
そんなことをしているうちに、ふと時計を見た。
6時11分。
驚いた。
もっと時間が経ったと思っていた。
仕事をしていた頃は、時計ばかり見ていた気がする。
今は逆だ。
時間を忘れて過ごし、後から時計を見る。
そんな朝だった。
「今日帰らなくてもいいんだ!」
と喜んでいたNおじさんも、さすがに今日は帰らなければならない。
8時頃、撤収を終えて幕営地を出発した。
最後に少しだけ竿を出しながら、三伏峠へ向かう。
魚の姿は見える。
ルアーを追ってくる魚もいる。
アタリもある。
それでも掛からない。
水温のせいなのか、腕のせいなのか。
理由は分からない。
昨日あれだけ釣れたのに、今日は釣れない。
まあ、そんな日もある。
そう思いながら歩いた。
そして納竿した瞬間、急に疲れがやって来た。
ああ、疲れた。
魚を追っている間は忘れていたらしい。
また再来週!
三伏峠からは、ほぼ下りのみである。
今度は登りと違って周囲を見る余裕があった。
小屋の脇にはサンカヨウが咲いていた。
雨に濡れると花びらが透明になる花だ。
三日前は雨に文句を言っていたのに、その雨があれば美しいだろうなと思う。
勝手なものである。

下りながら、花の名前を調べて歩いた。
群生していた可憐な白い花はオサバグサだった。
なんか知らんけど、結構レアらしい。

以前から気になっていた美しいカタバミも、コミヤマカタバミという別の花だと知った。
庭に生えていれば雑草として抜いてしまうカタバミなのに、山で見るそれはどうしてこんなに美しいのだろうと疑問に思ってはいた。
なるほど。
そういうことだったのか。
名前を知ることで見え方が変わることもある。
登山口へ着く頃には、空はすっかり夏の顔になっていた。
そこから駐車場までの林道は、ギラギラした陽射しとの戦いだった。
雨に備えて持ってきたSix Moon Designsの傘が、最後は立派な日傘として活躍する。
やがて駐車場へ到着した。
びしょびしょの沢靴を脱ぐ。
ハーネスを外す。
体が軽くなる。
楽しかった時間が終わったことを実感する瞬間でもある。
岩魚はよく釣れた。
酒もよく飲んだ。
竿は折れた。
岩魚には逃げられた。
そしてまた釣られた。
花も咲いていた。
三日間はあっという間だった。
荷物を片付けながら、
「また再来週!」
と言って別れた。
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