黒部源流釣行記|人は、思ってもみなかった縁で生きている

黒部へ帰る

折立へ

朝2時に起きて支度を始める。
薬師沢小屋の支配人、やまとけいこからの今回のリクエストは、ゴーヤと大葉とチーズ。
それらをザックに入れる。

ゴーヤは1本200円近くした。
畑に植えてあったら、きっといくらでも実っただろうにと思うと、悔しい。
来年は、ゴーヤを植えよう。
大葉も去年は捨てるぐらい取れたのに、今年の夏はなかなか本格的な暑さが来なかったせいか、まだ収穫するほどには茂っていない。
でもそういうのも、季節と共に生きるようで、悪くない。

玄関を開けると、真夏でも安曇野の朝はひんやりしている。
朝と言うよりもまだ夜か。
東京では今の季節だと、エアコンが24時間フル稼働だったものだが。

エンジンをかけ、折立へと向かう。
真っ暗なリンゴ畑の間を走りながら、ふと気づく。

「そうだ!高速使わなくていいんだ!」

国道158号を経由し、有峰林道の東谷連絡所へと向かう。
この林道は、通行時間が午前6時~午後8時までと定められているので、めちゃくちゃ早朝から登り始めたい場合は、折立で前泊しなければならない。
しかし折立キャンプ場は今年も閉鎖されているので、車中泊になる。
また、通行料は2,700円に値上げされていた。

太郎平を越えて

今回の同行者は、YAMAPで知り合った人で、もう6年ほどの付き合いになるだろうか。
沢をやり始めたばかりの頃、どうしても沢に入りたくて、いきなり一緒に釜の沢にいったという相手だ。
今にして思えば、なかなかに大胆な出会い方だったが、気付けば結構長い付き合いになった。

時は7月中旬。
良く晴れた暑い日で、陽射しはかなり強烈だった。
有峰湖を眼下に、太郎平への登山道を歩く。

夏の稜線は強烈な陽射しが降り注ぎ、体力を削っていく。
そんな時は、日傘があるとかなり楽になる。

この日傘がいかに優れているかについては、こちらから。

ちょうどニッコウキスゲが花盛りで、見渡す限り斜面に咲き誇る様は圧巻だった。

チングルマは既に綿毛になっていたが、太郎平小屋付近からは、まだ咲いていた。
いつも沢に行っている間に満開の時期を逃してしまうので、今年は見られてよかった。

薬師岳もよく見えている。
この登山道は、樹林帯が短めで気持ちがいい。
その分、雨風が強い時はふきっさらしにはなるが・・・。

太郎平小屋

登山口から4時間弱登ると、太郎平小屋に着く。
相変わらず売店には、五十嶋オーナーが座っていた。
たまにうたた寝していることがある(笑)
今年で87歳になるというが、いつまでも元気でいてほしいものだ。

太郎平小屋のランチは11時~13時。
なので、折立から朝イチで登ってくると、若干待ち時間ができる。
なお今年からメニューが変わっていた。

お腹が重くなると苦しいとは分かっていながらも、ビールとネパールカレーを頂いた。
このネパールカレーは、去年までは土日祝日のみの提供だったが、今年はレギュラー化し、普通のカレーは終了したようだ。
レトルトにもなっていて、売店で購入することができる。

薬師沢小屋へ

ここから薬師沢小屋までは、あと2時間10分。
あまりにも何度も歩いたので、どこに何の花が咲いているかまで憶えているぐらいだ。

今年はコバイケイソウの当たり年なのか、見事な群生だった。

あと、ウンコ蝶々も当たり年だったのかもしれない。
かなりうっとうしかった。

正式名称は知らないが、動物のフンにたかっている上に、人にやたらまつわりついてくるので、ちょっとイヤだ。
私はウンコじゃない。

沢でよく見かけるのだが、「ウンコ蝶々」と勝手に命名していたところ、けいこも同じ名前で呼んでいた。


このルートは木道が多いが、今年は木道の傷みがずいぶんとひどくなっていた。
と思ったら、ちょうど木道の更新工事をしていた。
後から知ったが、木道は一本80kgもあるという。
この暑い炎天下で、本当に大変な作業だ。
思わず、北アルプストレイルプログラムに1,000円募金してしまった。

小屋のすぐ近くまで来ると、いつもここから黒部の流れを見る。
相変わらず美しい黒部グリーンだ。

黒部のほとりで乾杯

小屋に着くとコマドリが鳴いてた。

受付にいるけいこと、ひとしきり話し、持ってきたゴーヤ等々を渡す。
家で作ってきたささみの燻製は、あとで一緒に食べるために、

「冷蔵庫入れとくね」

と、けいこが小屋の冷蔵庫へ。

そういえば、同行者が薬師沢小屋を見て一言。

「今まで泊まった山小屋の中で、史上2番目にぼろい山小屋。」

思わず笑ってしまった。
私にとって薬師沢小屋は、もう何度も通っている場所だ。
けいこもいるし、「山小屋」というより、友達の家に遊びに行くような感覚になっている。
だから、「ぼろい」と思ったことは一度もなかった。
でも、初めて泊まる人の目で見れば……

言われてみれば、確かにそうかもしれない。

小屋は傾いているし、窓もちゃんと閉まらない。
すき間だらけだから、小屋内は蛾だらけだ。

なおこの小屋では、宿泊以外での飲食は提供していない。
売店でカップラーメンなどは購入可能、水は無料。


川におりてさっそくビール!
相変わらず美しい黒部のほとりで宴会は最高だ。

小屋前のテラスもいいが、やはり流れのそばまで降りてきたい。
冷たい流れに足をひたして涼をとりながらビールを飲むのは、実に贅沢なひと時だ。

小屋前の流れを何気なくのぞくと、岩魚の姿を発見。
それを見た瞬間、二人とも顔を見合わせる。

「……いる。」

宴会をしていたはずなのに、次の瞬間には二人とも当たり前のように竿を手に取っていた。
小屋前の岩魚は、人の出入りも多い場所だけに、かなりスレている。
正直、「これは釣れないだろう」と思っていた。

……ところが、ちゃんと釣れた。

その日は他にもルアーやフライの釣り人が何人もいて、みんな夢中になって竿を振っていた。

夕方になると、自然と小屋のテラスに釣り人たちが集まる。

「今日はどうだった?」
「どのルアーで出た?」
「上流の様子は?」

そんな話で盛り上がり、釣り談義に花が咲いた。

写真は、小屋の通常の夕食&朝食。
連泊の場合、夕食メニューは変わる。

薬師沢で過ごす一日

源流へ

翌朝も、空はよく晴れていた。
薬師沢は、今年も変わらず美しい。

沢を眺めていると、ふと思う。
こんなふうに黒部源流で釣りをするようになるなんて、昔は想像もしなかった。

けいことだってそうだ。
どうやって本人と出会い、何をきっかけにファンになり、どうして今のような友達になったのか。
振り返ろうとしても、もうよく思い出せない。
それでも今は、黒部のほとりで一緒に酒を飲み、来春にはサンティアゴ巡礼を歩こうと約束している。

人生は、計画したとおりに進むものよりも、思ってもみなかったことの積み重ねでできているのかもしれない。

沢の中では、大文字草が可憐に咲いていた。
岩肌にひっそりと咲く姿は、何度見てもかわいい。

斜面にはニッコウキスゲが咲き乱れるし、竿も振りやすい開けた渓相で、本当にいい沢だ。

この沢は、特別困難な滝や高巻きがあるわけではない。
……とはいえ、結局なんだかんだで腰まで水につかることになった。
ぬめりの状況は時によって異なるが、靴はラバーで問題なかった。

釣果は良好。
美しい流れに毛鉤を打ち込み、宝石のように輝く岩魚を引っ張り出すのは最高だ。
釣り人がよく入る沢だけあって、毛鉤は見切られがちだが、それでも岩魚はよく遊んでくれた。
時々、「これは偽物だろ!」と言わんばかりに岩魚パンチをかましてくるのも、かわいいものだ。

道中、お弁当のちまき(3個1,300円)を食べる。
荷物を持ってくるのが苦でなければ、素麺をゆでて食べるのも最高だ。

テラスで過ごす午後

第三渡渉点で同行者とは別れ、私は一人で薬師沢小屋へ戻る。
ちょうど昼食時だったので、けいこは受付にはいない。
だから、お金をカウンターに置いて、冷えたビールを一本、水槽(冷水で冷やしているケース)から取り出す。
そのままテラスへ。

テラスへ行くと、リールの忘れ物が置かれていた。
誰かが慌てて出発したのだろうか。
とりあえず受付へ持っていき、さっき置いた千円札の重しにした。

ビールを片手にテラスにいると、釣竿を手にした男性がいた。

「今日が初めての釣りなんです」

ふと竿を見ると、延べ竿に毛鉤。

一瞬、頭の中に「?」が浮かぶ。
しかも、そのまま本流側へ降りていくように見えたので、「大丈夫かな」と少し気になって様子を見に行く。
すると、小屋のすぐ近くで釣りらしきことを始めていた。

「まあ、この辺なら大丈夫か。」

そう思って見ていたものの、どう見ても釣りそのものが初めてという感じだったので、結局、少しだけ降りて行って釣り方を教えることにした。

話を聞いてみると、その釣竿は雲ノ平小屋から借りてきたものだという。
なるほど、それで釣り道具の組み合わせがちょっと不思議だったのか。

あとでけいこに、

「雲には釣りをする人はいないの?」

と聞いてみた。
すると返ってきたのは、

「雲にうちが唯一勝てるのが、釣り(笑)」

そうこうしているうちに、けいこが受付へ戻ってきた。
そして一言。

「里美のためにビール冷やしといたよ。」

……さっき一本飲んだばかりなんだけど(笑)。
せっかく冷やしておいてくれたのだから、もちろんもう一杯いただくことにした。

しかもこの日は、奇跡的に宿泊客が少ない日だった。
小屋の従業員たちが、

「今日はこっちは大丈夫だから、二人でゆっくり飲んでていいですよ。」

と言ってくれたらしい。
おかげで、昼間から黒部川を眺めながら、けいことのんびり過ごすことができた。

テラスで、けいことゆっくり酒を飲む。

「20年くらいこの小屋で働いてきたけど、昼間からこんなふうにゆっくり飲めるのは初めて。」

と、けいこは笑っていた。

この日は本当に宿泊客が少なく、従業員のみんなが仕事を回してくれたおかげで生まれた、特別な時間だった。
そして、けいこがおもむろに取り出してきたのは白州
しかも、ちゃんとまで用意してくれた。
そして、こう言った。

「大切な人と飲むために、とっておいたんだ」

黒部の流れを眺めながら飲む白州は、特別においしく感じた。
あの白州の味は、きっと一生忘れない。

白州を飲みながらテラスでのんびりしていると、ふいにけいこが言った。

「小ちゃんがいる」

見ると、小さなアオダイショウが日向ぼっこをしていた。
この子は「小ちゃん」。
ちなみに、もっと大きな個体は「大ちゃん」というらしい。
そっと近づいてのぞき込むと、

「……なんですか?」

と言いたげな、少し戸惑ったような顔。
かわいくて、ついそっと触れてみる。
すると、「えっ」とでもいうように、するすると逃げていってしまった。

テラスの前では、ハナアブや、ウンコ蝶々、名も知らぬ緑色の甲虫たちが、わんさか飛び回っている。
昔の私は、ハナアブなんて嫌で仕方なかった。
でも今では、自分にとまったハナアブを、羽根をつまんで捕まえられるくらいになった。
慣れたというより、沢をやるようになってから、彼らとの境目が曖昧になったような気がする。
いつの間にか、自分も沢の風景の一部になってしまったような感覚がある。

ガチ釣り師、大ちゃん

沢からひとりのフライフィッシャーが上がってきた。
見るからに高そうなロッドを持っている。
この人もけいこと親しいらしく、こちらは人間の大ちゃん、と紹介を受け、ひとしきり一緒に飲んだ。

ガチの釣り師の話を聞くのは、本当に面白い。
みんな、自分だけの「忘れられない一匹」を持っている。
大ちゃんは、伝説の釣り師の話をしてくれた。

その人は小学生の頃、自転車で釣り場へ向かい、四日間、一人で野宿したという。
そして毛鉤は、家で飼っていたインコの羽で自分で巻いたもの。
その毛鉤で初めて釣り上げた一匹は、忘れられないと語ったそうだ。

大ちゃんの話を聞いていて思った。
ジャンルは何でもいい。
釣りでも、登山でも、料理でも、語学でも。
昨日までできなかったことができるようになること。
昨日まで知らなかったことを知ること。
そうやって、一歩ずつ前へ進んでいくこと。
それが、生きる意味の一つなんじゃないかと思った。

私だって、昔は釣りなんてするとは思ってもみなかった。
それが今では、源流へ入り、流れを読み、毛鉤を打ち込み、沢から岩魚を引っ張り出している。
あの頃の自分が見たら、きっと驚くだろう。

思ってもみなかった未来は、毎日の小さな「できるようになった」の積み重ねから生まれるのかもしれない。

薬師沢の夜

二日目の夕食は、けいこや大ちゃん、小屋の従業員のみんなと一緒にテーブルを囲んだ。
だからメニューも、従業員の食事だ。
この日のメインは、なんと焼きたてのピザ。
さらに、ブルスケッタが並び、ワインまで出てくる。
黒部源流のど真ん中。
薬師沢小屋の食堂で、ピザを頬張りながらワインを飲んでいる。

……ここは一体どこなんだ?

昼にはビールを飲み、けいこと白州を飲み、さらに日本酒、ワインと飲んでいると、だんだん瞼が重くなってきた。
みんながまだ楽しそうに飲んでいる横で、私は舟を漕ぎ始める。

「眠い・・・おら、もう寝る・・・」

ひと足先に布団へ潜り込んだ。

また帰ってくるために

この時代を生きて

ああ、今日は下山か・・・。
そう思いながら、受付の前でけいこと話し、いつもの絵を描くところを眺める。
紅茶を淹れて、7時の定時交信を待つが、なかなか始まらない。
この定時交信は、朝夕7時に行われており、一帯の山小屋同士で情報を共有しているものだ。
最近、五十嶋オーナーは遅刻が多いらしい(笑)

交信を待ちつつ、周囲を見渡す。
薬師沢小屋の中には、けいこのイラストや手書きの文字があちこちにある。
この小屋と、けいこは切っても切り離せない。
だから、いつかけいこがこの小屋を去る日が来たら、どんな風に見えるのか想像もつかない。
きっと何十年か後には、

「昔、この小屋には面白い小屋番がいてね。」

なんて語られているんじゃないだろうか。
そして後の世の登山者が、

「一度会ってみたかった。」

などと口々に言う日が来るのかもしれない。
私が、『黒部の山賊』を書いた伊藤正一さんに会ってみたかったと思うように。
もしそうだとしたら。

私は、けいこと同じ時代を生きることができた。

それは、とても幸せなことなのだと思う。

黒部を後に

名残惜しいが、小屋を後にして、また工事現場を通過する。
この現場は、今回の行程で三度通った。

・薬師沢小屋へ向かうとき
・翌日、釣り上がって第三渡渉点から小屋へ戻るとき。
・そして下山の日。

最初は、「仕事中だし、あまり話しかけてもなぁ。」
と思って、軽く挨拶をするくらいだった。
ところが二日目の夜。
私は薬師沢小屋で、けいこや従業員のみんなと盛大に飲んでいた。
その様子を、どうやら工事の人たちも見ていたらしい。
下山の日、通りかかると笑いながら、

「お酒、残ってませんか?」

と思わぬ一言が飛んできて、笑ってしまい、そのまま少し立ち話をした。

下山途中、おそらく今年大人になったばかりであろう小さなカエルがぴょんと跳ねた。
頑張って生きろよ、と思う。
そして小屋でも色々な出会いがあった。
みんな、大きな輪の中でつながっていて、その輪は食物連鎖でもあり、人間関係でもあり、社会における役割でもある。

その中に皆、ただ存在している。
意味はない。
人間が意味を与える。

なんて、即席ニーチェみたいなことを考えた。

第三渡渉点で、未練がましく竿を出してみたら、一投目から岩魚が食いついてきた。
テンカラ釣りは、思いたったらすぐに竿を出せるのが、とてもいい。

源流釣りの聖地

下山途中、かなりの釣り人達とすれ違った。
その度に、沢のコンディションについて言葉を交わした。
皆一様に、楽しそうな顔をしていた。

薬師沢小屋は、源流釣りをする人にとっては聖地のような場所だ。
ただ、気軽に行ける場所ではない。
登山口の折立から、約6時間歩いてようやくたどり着く。
それでも、多くの釣り人が何度も訪れる。
考えてみれば当然かもしれない。
登山道を歩くだけで、本格的な源流へ行ける。
こんな場所は、そう多くはないのだから。

あと何年、けいこと一緒に薬師沢小屋で過ごせるのだろう。
その前に、ポルトガルで1か月半の巡礼の旅が待っている。
まだまだ、楽しめるに違いない。

やまとけいこの著書